43回目の命日
あれは1979年、昭和54年のことでした。
僕が中学二年の時。
授業中のこと、突然担任の教師が教室に入ってきて、授業をいったん遮ったのです。
「カワムラ君、ちょっとこっちへ」。
普段から冷淡でキレてばかりのの通称ササババの表情がとても複雑そうな顔つきになっている。いったい何事かと思いました。
教室を出るとササババは僕の背中にそっと手をやり、こうつぶやきました。
「おかあさんから電話が入ってるの…」といって職員室ではなく、校門脇にある守衛室へ。
そこにテーブルの上にぽつんと置かれた黒い受話器がありました。
手に取ると、おふくろが激しくむせぶ声が聞こえてきました。
「けんちゃんっ?!けんちゃんっ!パパがっ、おとうさんがぁっ、うぐぐ$#&●×*?▼…」
生れて初めて生の絶叫というものを聞きました。
その異常さに僕は一気に嫌な予感が走ります。受話器の向こうからお袋が声を絞り出すようにして再び叫びました。
「もうっ、もうダメだってっ。もうっ、もうっ、うわぁっぁあ」
受話器の中だけで響き渡るおふくろの悲痛の叫び。ぼくはゆっくりと受話器を置き、5メートル先のデスクで視線を落とす守衛さんを一瞥し、ササババが今も背中に手をやり続けていたことに気づきます。
「カワムラ君、もうすぐタクシーが来るから。それに乗って病院まで行きなさい。学校は少しお休みしていいから」
そういった直後、タクシーが校門前に到着。かばんも持たずに僕は車に乗せられ、学校からの下りの坂道に立ち並ぶ和菓子屋やクリーニング屋を眺めます。
見慣れている風景のはずなのに、それが初めての街のように見えたことを今でもよく覚えています。
着いた先は茨木市民プール近くのわりとこじんまりとした病院でした。他学区でしたが、僕は水泳部だったので、この辺りは何となく土地勘があります。
エレベーターで何階かにつき、廊下に出ると数人の看護師が忙しくなく出入りしている部屋がありました。
おそるおそる入口に立つと、そこに親父の形をした物体が横たわっており、医師が電気ショックをもって数秒おきにガッシャ―ンとやっています。
電源が入るたびに親父の形をした物体はエビのように跳ね上がります。ドッーン、ドッーン。とても異常な光景に思えました。
そのすぐ背後でおふくろが泣きじゃくりながら「おとうさんっ、パパッあっ、おとうさんっ」と膝に手をついてずっと叫んでいます。
僕が呆然と立ち尽くしていると、そこに3歳年上の兄貴がやってきました。彼もまた何も言わずに、僕と同じようにただ立ち尽くしその信じられない光景を見つめるのみ。
医師は手による心臓マッサージに切り替えました。人の力で、人の胸というものはあれほどまでに沈みこむものなんですね。ものすごく力を込めて胸を押します。
十秒か、二十秒かが経った頃、医師は手を停め、腕時計と部屋の時計を見て、親父の死を告げました。
その瞬間、おふくろは親父の方に崩れ落ちるようにして抱き着き、この世のものとは思えない悲しい声で泣き叫びました。
それを見ていた僕は不思議と涙が出ません。それよりもおふくろが心配で心配で。さて、兄貴はどうだったか知りません。
人は本当に悲しい時は泣けないことがある、という賢そうな弁を知ったのはそれから十数年が経ってからのことです。
父親の直接的死因は心不全。昨日までは普段通りに生きていて、今日突然死んだのです。本当の経緯は不明のまま。
享年44歳。母親はこの時43歳。僕は14歳でした。
その瞬間から僕は今までとはまったく違った人生となります。まず見るもののすべてが、虚しく、冷温で、不自然に見えるのでした。
翌朝、平気で昇る朝日にさえも異常に感じました。父親が死んだのになぜ日はまた昇るのか。神を恨みました。本当はお前なんて存在してないんだろ?
いつもの新聞配達のバイクの音にも違和感を覚えました。こう、無情さというか、悔しさというか、言葉にならない不思議な感覚です。
親父の亡骸はとても重そうに見えました。真っ白な布団に真っ白な服を着せられ、顔に白い布を置かれて。線香のニオイに何だこれは?ととてつもない違和感を覚えます。最愛の親父がとても遠い存在に感じられました。
お通夜にササババが来てくれました。僕のカバンをもって。
たくさんの人がやってきました。家はけっこうデカくて庭がけっこう狭い。みなさんはその狭い庭をぐるりと回ってきて、裏側になる和室の縁側から数珠をもって焼香するのです。みんな神妙な表情です。殆どの人が泣いています。それを見るのがとてもつらかったです。
秋は遺体の管理が微妙な季節なのだと葬儀屋さんがそう言って、親父の亡骸のあちこちにたくさんのドライアイスだか保冷剤だかをセットしました。動かぬ足の指を触ってみるとカチコチです。実は親父のことをほとんど知らない僕でしたが、水虫もちであることは知ってました。
人は死後しばらくしても体毛や髪の毛が伸びるのだそうです。水虫はどうなった?などと妙に冷静な自分がありました。
翌日、親父の亡骸を棺桶に入れようにも、たまたまかミスか在庫切れか、サイズが合わないということで足の骨を折るというので、その場を離れました。おふくろは半狂乱になって拒絶してましたが、そばにいた誰か(おそらく親戚)が抱きかかえて引き離していました。
数分して棺桶に入った親父の顔を見ました。ほっぺはほのかにピンク色となり、鼻の穴に綿が積められ、冷蔵庫みたいな臭いが漂い、頭から足の先まで花だらけで窮屈そうです。
葬式がありました。
昨夜よりもすごいたくさんの人がやってきました。道路は混雑するタクシーで不通状態となっていたようです。後で知ったことですが300名以上の人がやってきたとか。
でも何人来ようが、その日も上る朝日や新聞配達のけたたましいバイクの音が不自然に思う感覚にかわりはない。すべて空虚のように思えました。
その後、火葬場へ行き、亡骸を焼きます。人を焼く匂いは独特のにおいがしますね。大人になってインドやネパールを旅して、何度か同様の匂いを嗅いだことがあります。
親父の骨は太くて重たいと誰かが言いました。それだけ若死にだった、というのと、俳優の石原裕次郎のようながっちりとした体系だった、というわけで。重かろうがなんであろうが、箸で摘まんだ骨をわざわざ隣の人へ回して、ちょこちょこと骨壷につめていきました。
数日後、親父方のおかあさん(おばあさん)が勝手に郷里静岡に墓をたてたとか、葬儀の最中だかその頃に警察から遺体解剖をしたいと言われていたとか、他殺の疑いがあるとか、取り調べがあって今度また話さなければいけないとか、週刊誌が取材したいとか、まぁ本当どれもこれも信じられないような話があちこちからこぼれてきました。
ちなみに企業戦死とか過労死とかパワハラとか労災とか医療ミスなどという言葉が世間を賑わすようになったのは、それからもっともっと後のこと。
親父が救急車で運ばれた病院は救急病院ではなくただの産婦人科だったそうですが、まさかね。僕はあえて調べていません。これらの現代用語が親父にいくつ当てはまるかわかりませんが、それももうどうでもいい。
なにがどうなったって死んだ親父はもう帰ってこないのだから。
これ以降僕の人生はなかなか独特のものになります。まず同級生たちと話が合わない。あまりにも人生に対する考え方が違うのです。日々の暮らし方も家族のあり様も。一時期はアウトローな路線にも行ってしまいました。
でも、幸いにも僕には大変お世話になる料理屋やバイク屋、そして中卒アウトロー系の仲間たちのおかげで、酷いことにはならず、むしろ人一倍楽しく充実した青春時代を迎えることができたと確信しています。
大人になってからは、あまりにもいろんなことがありました。とても語り尽くせない。
おふくろはコロナ襲来と同時に認知症対応の老人施設に入居。それほど酷いわけじゃないですが、おそらく今でも自分がどこに住んでいるかわかっていないと思います。いや、それでいいのです。
年に3,4回、アクリル板越しに10分ほど会えるのですが、たまに僕が誰かわかっていません。でも、とてもいい笑顔を見せてくれます。今まで見たことがないほどの笑顔です。何があっても笑え!最後まで笑うのだ!泣いてでも笑え!そうやってこの世を去っていくのが一番の幸せだと確信しています。それが最後に残った僕のおふくろに対する望みです。
明日は親父が他界して43年になります。すっかり僕は親父よりも年上になっていて。でも心の中ではあの時の子供のまま。時間が止まったままです。
親父、ありがとう!僕はもっともっとハッピーな人生を送りますよ!
そしてもうひとつ、再来週はおふくろの誕生日。もう思い出せないだろけど、施設の都合で会うことができないけど、お誕生日おめでとう!
これからが本番です!