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カテゴリー「スパイスジャーナルについて」の記事

取扱情報、日誌、スパイスジャーナル誕生秘話など

2017.06.10

誰でも気軽に使えるナンチャッテマサラ

久しぶりにスパイスレシピの話を。

インドにあるチャートマサラの日本的超お気軽版にアレンジしたものである。マサラは混ぜ物のことなので、複数のスパイスを合わせたものである。

ちなみにチャートとはインドの言葉で、直訳すると「ぺろっと舐める」という意味だと知人のインド人はにやにやと話す。

主に北インドで多用されるスパイスで、感覚的には軽食に使う簡単スパイスである。

ヨーグルト、ドリンク、フルーツ、トーストなどによく使う。たまに炒め物などの料理にも使っている。

僕は昔から「インド料理とは創作料理のこと」と言い続けているのだが、これもまた絶対という配合はない。

ただし、大黒柱というものはあって、それがクミン、コリアンダー、ブラックペパー、塩、アムチュールだ。

アムチュールとはドライマンゴーパウダーのことで、フルーティーな酸味が特長のスパイス。

が、こいつが一般的ではない。そのため、もしこの配合スパイスを使うことがあったなら、レモン果汁を使っていただければと思う。元々レモン果汁を使ったレシピなら、それをいつもより多めに使うなどアレンジしてもらうとよりいいかもしれない。

同じ配合スパイスにガラムマサラがあるが、こちらは肉のカレーなどの仕上げや隠し味として使うものであり、チャートマサラはスナックやデザート、サラダ的なものに、その場で気軽に使うスパイスである。

もひとつおまけに言うと、ガラムマサラはどちらかというと冬向けのスパイス。体を温める作用のあるものを中心に配合しているから。

一方のチャートマサラは暑い時期にぴったり。爽やかなアムチュール、おなかの調子を整えるクミン、気分をリラックスさせるコリアンダー、抗酸化物質の胡椒、そして塩分。

旬野菜のサラダに、フレッシュフルーツにぱらぱらと、冷やしたライタ(ヨーグルトに野菜を加えたもの)はもちろんラッシー(ヨーグルトジュース。日本メーカーの既製品にもあう!)、キュウリやトマトをばばっと切ってその場でふりかけるもよし。

意外なところではトーストや目玉焼き、焼き魚、フライドポテト、FFのバーガー類にもどんぴしゃだ。これは実際に僕が今までやり続けていることなので間違いナイスよ~

ぜひぜひ、オススメ!
 

●基本的な配合比率

クミン、コリアンダー、胡椒(白粉末でも可)、塩(できれば岩塩。本場はブラックソルト)、各1ずつ。もしアムチュールを見つけたらぜひ。配合比率は好みで自由に変えてよい。インドでも人や店、メーカーによって全然違う。インド版は塩や胡椒が多め。たまにチリやシナモン、ヒング(樹液の粉末)などが入る。自分のチャートマサラを作ってみよう!
 

● 『夏野菜のアチャール』

材料)2~3人分

キュウリ  1本

ミニトマト  1パック *12~13個ほど。

新タマネギ  1/2個 *なければミョウガや大根でもおいしい。

レモン果汁  1/2~1個分 *種を取る。量は好みでいいが多めがオススメ。
 

スパイス)

★ナンチャッテマサラ 小さじ1~2

または以下のものをばらばらに入れてもOK

・クミンパウダー 小さじ1/2

・コリアンダーパウダー 小さじ1/2

・粗挽き黒胡椒 1/2 *好みで調整

・岩塩  小さじ1/2 *好みで調整
 

作り方)

1.キュウリを、縦に4等分、横に長さ1センチほどの、さいの目に切る。

2.トマトはヘタを取り、縦半分、横半分に切る。タマネギは長さ1センチほどに乱切り。

3.スパイスと塩をいれ、レモンを絞り、かき混ぜたら出来上がり。

ね、超簡単ですやろ?

2017.02.07

ターメリックの効果的な摂取の方法

スパイスジャーナルのコンテンツのひとつに、毎回スパイス料理の科学的な実験・分析をする「スパイス宇宙の旅」というものがある。

その中で、スパイスの代表格であるターメリックについて、vol.01、02、03、05の4回にわたって調査し続けた。

ターメリックとはインドをはじめその周辺諸国で醤油のように多用する(沖縄ではウコン)スパイスで、鮮やかな黄色が特徴的だが、ひとつ間違えると?赤色になるのである。

例えば、焼きそば。一般に売られる袋入りのあの麺だ。

あれを炒めて、ターメリックを入れるとマジックのように真っ赤に変色する。

僕はそのことを利用して、よく「赤い焼きそば」なるものを調理していたことがあるのだが、いったいこの変色の理由は何なのか?

コーナーを担当する近畿大学薬学部薬学博士のDr.Tagaによると、「これは酸性からアルカリ性の変化」とのこと。

なんだ~そんな簡単なことだったのか・・・と思った瞬間、Dr.Tagaが「そうなんだけど、ちょいと待った!これをどんな環境で調理しているのか?」と言うので、あれこれと説明するうちに、彼は鍋に着目。

僕は普段、鉄の黒くて大きな中華鍋を使っている。

ということで、一般的な表面加工したフライパンと、僕が普段使っている中華鍋で作り分ける。

するとどうだ、前者よりも後者のほうが、やや濃い赤色になった。もちろん、炒める時間も油の量もターメリックの入れるタイミングも同じ条件。

そしてDr.はそれをちょこんとつまみとり、酢をかけた。

すると今度は元の麺の色+ターメリックが加わった、黄色に再び戻った。が、しかし、中華鍋で炒めたほうの麺は赤みがかったままである。「やはりそうか・・・」

これ、いったい何が起こっているのかというと、ターメリックに含まれるクルクミンという成分と鉄分が結合しているのだ。

ターメリックに薬効成分があるとかないとか、なにかと騒がれている正体はこのクルクミンである。

かつて、「肝臓の健康維持に効果的」というニュアンスで世にぐいっと広まった。

ただ、これはひとつ難点があって、なかなか体内に吸収されにくい、らしい。

そこで我がスパジャーのDr.Tagaはこういう理論を誌面に打ち立てたのである。

(以下、誌面通り)

「クルクミンは肝臓にいいといわれてるけど、実はそのままでは体内に吸収されにくいので排泄してしまう。だけど、ピペリンという化合物が共存することで働きが何倍にも向上するともいわれてるんだ。そして嬉しいことにピペリンはブラックペパーに多く含まれているんだよ。日本人の多くは鉄分不足。こうして必要なスパイスたちが共存することで、クルクミンと結合した鉄分も同時に吸収されやすくなる可能性さえあるってわけだ。カワムラ君、だからターメリックとブラックペパー、中華鍋、の三つはマストアイテムだよ。」

S
(左=加工鍋で炒めた赤麺に酢をかけたもの。右=中華鍋で炒めた赤麺に酢をかけたもの。スパイスジャーナルvol.02より。写真とテキストの無断転載は固くお断りします)

吸収が難しいからと言って効果がないわけではない。そこに結合という作用が加わることで、体内吸収の期待が高まる。

とりあえず今回の我々の間でわかったことは、ターメリックと胡椒と鉄分が結合することで体内に吸収することができる、ということだった。

鉄分が豊富な食材としては、レバーや卵はもとより、肉や魚、海藻類、小松菜など、身近なところにわんさかとある。

さらにスパイスの中にも鉄分が豊富なものがある。ガーリックや胡麻がそう。

ふむふむ、つまりは下手な薀蓄や理論オタクになるのではなく、スパイス料理を楽しんでおいたらええっちゅうことやね~!

2016.11.15

『スパイスジャーナル誕生秘話 ⑤スパジャー流の定期購読スタイル』

前項でスパイスジャーナルの「独自性」についてお話させていただきました。

10の項目があり、その中の「5.定期購読というスタイルで始めたこと。」「6.付録にいろんなスパイスをつけたこと。」についてここでは述べたいと思います。
 
 
「5.定期購読というスタイルで始めたこと。」のワケ

 最初は本を創り上げることが最大の壁と思っていましたが現実は違いました。平たく言えば「販路がない」。売る方法がなかったことを創り上げてから気づくというのはなかなか心臓に悪いものです。
とにかく僕は書店を渡り歩きまわるほか思いつきませんでした。そして書店のみんなが首をかしげるのです。

「取次ぎはどこですか?」

「なんじゃそりゃ???」

 少なくともまだまだ旧体制といわれた2010年3月時点では、まず話を聞いてくれる書店が5軒に1軒あるかないか。次に必ずといっていいほどこの取次ぎの話になり、恥を重ねるうちにわかってきたのがどうやらこの業界は流通が特殊だということでした。

で、これが湧いて出てきた僕なんか相手にしてもらえない。そんなだから最初の頃は既得権益に見えて邪魔にしか思えませんでした。

 こうなると「その無理を圧してでも風穴を開けていただきたい」としか思えないのが僕。そこをなんとか、と交渉して歩いているうちに書店員も色々アドバイスをくれたりしていきます。

「小さな本だから軽率に扱われるかもしれない」という意見に対し、こちらでビニールパックする手を考える。

「スパイスと言っても何のことやらイメージが沸かない」という意見に対し、ビニールの中に胡椒やクローブを一粒ずつ同梱する手を考える。

「読むほどに自分も行動したくなるのはいいけどその先の具体性が欲しい」という意見に対し、すぐに使えるスパイスを付録にする手を考え出しました。

 こういうことを積み重ねていくうちに、ついに書店で取扱をしてもらえるようになっていくわけですが、当初は年4回季刊でしたから時間的猶予はほとんどない。万が一にも数軒の書店が買ってくれても話にならないわけです。

 そこで次に思いついたのが読者ダイレクトの定期購読でした。これはもう目に入った人全員に頭を下げていくのみです。友人、知人、仕事仲間、よく行くお店、編集者。

見知らぬ人にも声をかけます。梅田の交差点で本と申込用紙を持って立ちんぼもしました。あまりにも売れないものだから、同様にオリジナルの本を立ち売りしてた人と妙に仲良くなっちゃったこともあります。

 でも、こういうことをやり続けていくうちに周囲の人たちが助けてくれることも増えました。みんながみんなを紹介してくれるようになっていったのです。

 こうしてコツコツと定期購読が増えたのはいいですが、様々な問題が容赦なく次から次へと出てきます。

年間契約でやっていたので継続手続きの方法がわからない。書店には掛率の相場というものがあり、その率で差し引くと利益がでない。さらに、受注や納品の手間隙がかかりすぎること、倉庫が必要、車はないからバイクを改造、大阪の駐車禁止取締りが厳しくなり数え切れないほどつかまったり。

 そして創刊してから3年目に次はこんなことに気付くのです。2000部を完売しても赤字になる、という事実。自分のアホさにため息も出ませんでした。スパイスジャーナル誕生物語の本が書けるかもしれません。
 
 
「6.付録にいろんなスパイスをつけたこと。」の理由と背景

 先述のようになんとか定期購読者と取扱書店が増えていったわけですが、そのときのスタイルがこれです。

 ビニール袋に何かしらのスパイスを一粒、そして毎回僕がハンドメイドで調整したカレー粉やガラムマサラなどを付録する。

 で、このスタイルが好評を得ました。やがて客によって要望が変わって行くのです。あのスパイスとこのスパイスをバラで欲しいとか、100グラム単位で別売りして欲しいとか、オリジナルのカレー粉を作って欲しいとか。当時の僕はイベントなどでオリジナルのスパイスキットなどをよく売ってましたから、それを聞きつけたお客が同様の品物を付録して欲しいとか。

 こうして購読コースも、1回本を発行するたび毎回20グラムとか30グラムとか、あるいは2回発行のつき1回の頻度で20グラムとか、さらにガラムマサラも追加セットとか、幾通りもも出来上がったのです。

 こうしていくうちにオンラインショップも立ち上げるのです。ここではスパイスジャーナルの付録あれこれと、三重県松阪時代(1998年頃)お客に育ててもらったスパイスキット各種と、最近創り上げたものなどを販売。

 ネットオンチの僕ですから、これも相当に苦労しました。いろんな人に助けられて出来上がっていったのです。ただし書店では売り方が少し変わっていきました。本そのものにスパイスをつけるのはやめて別売りとなったのです。原因はいろいろありましたが、大きな理由の一つに、お客のカバンの中にスパイスの匂いがうつったりして嫌な人も多いというのです。

 一方、定期購読者への付録スパイスはますますエスカレート。中には飲食店経営者もいて、その店のオリジナルの開発依頼をもらったこともあります。特に08号くらいまでは、スパイスのいろんなつき方の提案を掲載していました。

 09以降はたまにレシピ特集などをするなどして提案していくという形に進化しましたが、この付録スパイス期がスパイスジャーナルの柱となったことは言うまでもありません。お客一人一人の肉声がしっかりと届き、みなさんと深いコミュニケーションをとることができました。

 僕は決して始めからこれらのことを狙ってやっていたわけではありません。全部あたって砕け続けていくことでわかったことばかりです。

『スパイスジャーナル誕生秘話 ④サイズは小さくとも独自性がみっちり』

 スパイスジャーナルはことごとく前代未聞の塊と周囲からそういわれました。僕のアイデアの出所は常に現実の中でぶつかる壁の中にあります。だから、確かに誰かを真似たり、なにかを加工したりというのはないわけですけれども、それが前代未聞かどうかは僕としては認識していないしそれを目指したわけでもありません。そもそも、それを考えるゆとりがいつもない。

 とにかく今までやろうと思っていたことを具体化することに必死のパッチ。無き道を開き、無き橋を架け、あたって砕け続けるだけ。その連続の毎日で、気がつけば休刊するまでの5年間ずっと濃霧の中を彷徨っていた感覚しかない(笑)。いや、本当です。

 だからそういう意味では「前代未聞」というよりも「独自性」といったほうがしっくりときます。スパイスジャーナルの読者の方々はすでにご存知かと思いますが、今まで打ち出してきた「独自性」を、ここにあらためて列記してみたいと思います。

(思いつき順。もしかしたらもっとあるかもしれない)
 
 
1.スパイスという当時絶対に流行しないと編集者などから言われた言葉をメインテーマとしたこと。

2.本作り、特に雑誌ほど顔の大きさが大事といわれていたのにA5サイズなどと逆に小さくしたこと。

3.全編を英語とのバイリンガル、そして並列デザインにしたこと。

4.「知(静)」と「動」をセットにした構成、表現にしたこと。

5.定期購読というスタイルで始めたこと。

6.付録にいろんなスパイスをつけたこと。

7.スパイス料理に管理栄養士による栄養評価をつけたこと。

8.スパイスをテーマにした紀行をポップに連載したこと。

9.心のスパイスとしてヨーガも表現したこと。

10.毎号必ずスパイスのひとつをテーマとし表1でクローズアップし中に解説をいれたこと。
 
 
 これらのすべてが僕個人が現実の中でぶつかってきた壁の中から生まれたものです。いくつかについてはすでに詳しく述べたものもありますが、それ以外の5と6の解説を次の章でしたいと思います。
 

2016.10.08

スパイスジャーナル取扱店update!2016/10/8

スパジャー取扱店を久々に更新しました!

 
すべてを把握できているわけではないですが、現在の取扱状況を出来る限り調べてみました。
 
バックナンバーとお店によってはスパイスキット同時販売、または夏のみフェアを行なう店など多様です。
 
詳しくはマップを拡大して、最寄の書店等のマークを左クリックするとご覧になれます。お近くにない場合はオンラインショップ「TIRAKITA」などがオススメ!

2016.08.20

スパイスジャーナルについての新ページを開設

よく聞かれますので、ここでざくっと整理してみました。

「スパイスジャーナル」についての詳細です。

ウィキ風タッチとでもいいましょうか、一応客観のつもりでテキストをおこしました。

スマホなどでうまく開かないときはPCサイト表示に切り替えて、「◎広報室◎」から入っていただくとご覧になれると思います。

2016.01.29

『スパイスジャーナル誕生秘話 ③“スパイス”がテーマの媒体を考え付いた背景』

 本の名を『スパイスジャーナル』に決めたたのは2009年から年が変わる頃でした。でも、何人かの支持者というか応援してくれている人たちからは思いっきり反対されました。

「スパイスなんて言葉はマイナーすぎる。いくらカワムラがそういう思いをメッセージしたとしてもそれは世間一般では浸透していないし、たぶん今後も広がらない」

「スパイスもインド料理も、そんなに人は特別な思いはないよ。カレーマニアのための本だ」

「ジャーナルというのは報道のニュアンス。季刊誌では記録の感じになってしまう。もっと本の名を熟考すべき」という意見もありました。

 おまけに本のサイズも反対だと。当初の僕の計画ではタブロイド版またはA2二つ折りを考えていました。イメージはアメリカやヨーロッパの売店にあるようなゴシップな感覚だけど、その実は専門紙というもの。

 これについては女性たちの意見に従いました。A5サイズに。今ではすっかり当たり前のように見るサイズですが、実は当初これもけっこう斬新だったのではないかと思います。

 それまでも同サイズの媒体はいくつかありましたが、それらは小冊子(フリーや同人誌の感覚)の域でした。定期刊行する商業媒体としては決して多くはなかったのです。これについては後になってみて、確かに良い点も多かったように思っています。

 でも『スパイスジャーナル』という名前については何の迷いもありませんでした。中身も文字通り一貫として「スパイス」をテーマにしています。

 ただ、これは決してマニア向けではないと思っていました。一見マニア志向に見えてもその実は逆で、あくまで普通の生活を送る一般層に向けたもの、と。

 おおげさかもしれませんが、強い使命感のようなものもあったのです。長いあいだ数々の飲食に関する現場で生きてきましたが、その中のひとつで、このブログにもしばしば登場する三重県松阪市の『THALI』(1998~2001年)は象徴的といえます。

 毎日のように同じような質問が飛んでくるんです。

「日本のカレーって西洋から伝わったんでしょ?」「本場のカレーって辛いよね?」などから始まり「インド人はカレーを手で食べてる?」「インド料理はスパイスだけで作られる?」などと文化や料理法へ。

 もちろん肯定的な好奇心や疑問ばかりではありません。

「もっととろみがないとおいしくない」「カレーは焦げ茶色じゃないと。黒いカレーだってあるくらい。もっと勉強したほうがいい!」「カレーはコクマロが命。これじゃ物足りない」「ここは日本なんだから日本カレーを作れ!」などなど。

 で、時間と共に興味を持つお客さんも出てきます。「スパイスってなに?野菜?植物?」、「どの国に一番多い?種類は?定義は?」、「薬?薬効はどんな?専門家はいる?」などと入り込んだ質問も。

 当時から熱烈なインドファンのお客さんもいました。SNSやネットで誰もが情報を得られる現代ほど多数ではないですが、でもその分、強度というか深度というか薀蓄がそりゃもう強烈でした。中でも関東エリアで本場的なインド料理やネパール料理を食べ歩き続けている数名の組織?チーム?は凄かった。新幹線に乗って三重県までやってくるのです。

 今ではそれこそ国内のみならず海外へも気軽に行き来できる時代になりましたが、当時は三重県でもなかなかの彼方。名古屋で近鉄か在来線に乗り換え、駅から一応5分と不動産屋は言うけど、土地勘のない人はまず迷うような場所。

 でも、わざわざ足を運んでくださったのです。その後はスパイスキットやオリジナルのカレー粉、ガラムマサラ、料理の冷凍品など定期的にご発注くださり、ご自分たちの知識も惜しみなく伝達してくださいました。中には半分インド人みたいになってしまったような方も。インド好きなどという次元ではなく、住み着いた経験がある男性とか、ご主人がインド人で向うに10年ほど住んでいた女性とか、20年におよび年に3~4回通い続けている雑貨商の方とか。ほか石屋?の方で、年のうち3ヵ月はインドにいるという紳士も。よく考えてみれば、僕のかつてのバー時代のスタッフの1人もインドに住んだ経験者です。確か1年近く住んでいたような。このように「インド」と「スパイス」はずっと僕の傍に巻きついている状況でした。


 そんな日々を送るうちにやがて、他店や主婦たちから料理教室の依頼などがくるようになりました。が、この類のことだけには腰が引けました。

 理由は、ただただ忙しかったから。朝は仕込に追われ、あっという間にお客さんが来店。お待ちいただいているのに品切れになってゴメンナサイ!シンクに埋もれた皿をそのままにして仕入れに走り、戻ってきて夜の仕込前半戦。

 途中でご飯を食べてチャイが残っていればそれを飲み、すぐさま仕込み後半戦。夜は濃度の濃いお客さんが多く、アドリブも含めて10品ほど平らげるような方も。狭い店なので殆どのお客さんはフレンドリーに接してこられる。

 こちらもせっかくだと思い一生懸命にコミュニケーションをとるのですが、気がつけば夜の10時や11時で明日の支度は何もできてないし再びシンクから皿が溢れている状態。店の仕事はこれだけではありません。支払い振込みや(当時は窓口に並んでのアナログ作業!)、食品以外の細かい買い物もある。町とのいろんな付き合いも。

 もう語りだすと終わりません。本当に有り難いことなのですが、本当に暇がない。本職を全うすることにもう限界ギリギリというか、少しでも気を緩めるとアウトなんですね。これはおそらく、小さな店のオーナー料理人ならどこも同じかとは思うのですが。なので、料理教室はちょっと。

 さて、余談が過ぎました。本題に戻して、スパイスという1テーマの媒体を創り出した最大の理由は、以上のことからたくさんの方々がインド料理やスパイスに興味を持っていることを肌で感じ取っていたからです。

 でも、社会はそういう感じではない。というかかけ離れている。少なくとも自分が関係していた雑誌の編集部などでは、「インド料理」と「カレー」という言葉は最も人気のない言葉として信じられており、特集はおろか、小さな記事さえも書かせてもらえない状況でした。

 著名な料理研究家でさえも「インド料理」とか「カレー」という言葉を用いるのが主流だったように思います。だから、ならば自分で創ってしまおう!ってことで。決して物を売りたいがための宣伝とか、自分の権力や地位を保持固守するがための政治活動が目的ではありません。

 この本のコンテンツはみんなお客さんが投げてきた球から生れたものです。本当に、それくらい多くの人が「インド料理」と「スパイス」に強い興味を示していたわけです。今では、カレーだけがインド料理じゃないことや、辛いばかりではないこと、インド料理の多様さ、いろんな国にスパイスを使った料理があること、体調とスパイスの関係性、などなどかなり広くに知れ渡っているように感じます。

 もちろん、自分の功績だなんて思っていません。ずっと昔から、このようなことを人に言い伝えてきた人は数限り無くおられますし、その深さをリアルに伝えてきた偉大な店も数多く存在しました。きっと本もあったはず。ただ、現代のSNSやネットパワーは当時の浸透力とは比較にならない異次元の力を持っていることは確かだと思います。

 『スパイスジャーナル』は紙という旧式媒体ですが、僕の周りのインド人たちはみんな「カワムラはインドによく貢献した」と言ってくれます。嘘でもちょっと嬉しいです。

 実際に創刊すると、本作りの苦しみは一部であって、それ以外にやらなきゃいけないことが山のようにあることに少しずつ気付いていきました。その複雑さや忙しさは言葉にはできません。

 結局、貧乏なクセにわずかしかなかった貯金をすべて叩き、他の仕事をすべて捨てて、働くことがあるとすれば本の資金集めのために働いて、休日なんて年に数回あるかないかの状態になってしまいました。何度こんなことやらなきゃよかったと思ったことかわからない。でも、やっぱりやってよかったと思うんですよね、これが。

2016.01.24

『スパイスジャーナル誕生秘話 ②なぜバイリンガルにしたのか』

 当誌のコンセプトはいくつかありますが、その根っこに「シェア」というものがありました。

 言葉ばかりで、実は宣伝が目的、というものではありません。たとえば1人のインド人が新聞を読んでいて周りから覗いてくる者がいるとしたら、自分が読み終えた面から破って覗き込む者たちに手渡していくあの感覚のことです。どんなんや?(笑)。

 つまり、ただ共有していくだけ、ということです。これ、実はけっこう難しいと思うんですけど。

 僕が1990年代後半にやっていた日替りインド定食屋『THALI』には多くの外国人も来店してました。みなさん実に多様です。インド(ムスリムやヒンディ、ノンベジ、ベジ)、スリランカ(ブッディスト)、カナダ(クリスチャン)、アメリカ(黒人)、オーストラリア(白人)などなど。

 そこで彼らの多くがいつもこうもらしていたのです。

「もっと日本の普通を知りたい感じたい。みんなと同じことで笑ったりエキサイトしたい」と。

 例えばジョージア出身の黒人女性Kは学校で英会話の教師をしていたのですが、ある日、自分の誕生日に生徒一人一人からプレゼントをもらい、その「お返し」に困っていました。

「ニッポンでは、もらったらそれと同じくらいか少し下の価値のあるものをカエスと聞いた。ワタシのクラスの生徒は30人以上。一人一人にカエス?」

 アメリカ人でもプレゼントを頂いたらお返しするのは当然のようにあると聞きますが、彼女は日本には独自の風習「儀礼」というものが存在していると考えていたのですね。

「儀礼」なんて今では死語扱いされているかもしれませんが、多くの日本人の根っこには根強く存在していると僕は思っています。そういう意味では何かお返ししたほうがいいのでしょうけど、確かに30人以上の、しかも小学生の子供たちが相手ですからどうしたものやら。

 僕も一緒に悩みました。「ほんまやな~難しいな~」。で、結局は何もお返しをせず、子供たちと今まで以上に和気藹々と触れ合っていけばいい、なんていう実に抽象的な答えに行き着いたことをよく覚えています。

 ほか、カナダ女性二人組みの場合はこう。日本料理が出来るようになったから、と家に呼んでくれたのですが、その時に出てきたものが、厚揚げ豆腐の炒め物? 豆腐がやや焦げていて、醤油味が強く、バターの味がするのです。彼女たちは不安と期待が入り交ざるかのようなまん丸の目でこちらを見ています。

 僕は好奇心がとても強い性質なので、とても前向きに感じました。また新たな発見をしたとさえ思いました。が、彼女たちはこれを日本人の僕に試しているのです。何度も、これはちゃんと日本の味になってるだろう?と聞いてくるので、この知識の仕入れ先を尋ねたら簡易な惣菜レシピ本でした。

 開いた頁を見ると、そこには厚揚げ豆腐の煮物が。なんだなんだ、煮物か。味付けは昆布とカツオの出汁と醤油になっています。で、なにがどうなったらバターになるんだ?

 聞くと、何度か試してみてどうしても厚揚げ豆腐が焦げるとのことで油を添加すればいいと思い、ならばコクのあるバターを、となった模様。彼女たちのちょっとしたアレンジだったのです。さらに昆布をみつけられなかったそうで(おそらく見てもわからない)、鰹節を単に混ぜただけの状態に。

 とてもおいしいのだけど、彼女たちはとても不安な表情になってしまいました。何が違うのか、どうしたらいいのか。この料理を食べたくても、どこへ行けばあるのかがわからない。

 確かに、厚揚げの煮物なんて通常は外食でまずお目見えしない。また、そもそもが煮物なんて一見は簡単に見えるけどこれほど難しい料理法はない。僕は一所懸命に説明しましたが、僕自身も言葉としての認識が薄く、上手に伝えることができませんでした。あぁライター失格だななんて。

 結局、後日に昆布をプレゼントして出汁の取り方を教えに行った次第です。そう、彼女たちにしてみれば、本に昆布そのものの写真は載っていても、スーパーなどで置かれている状態がわからないのです。

 他にも、このような例は山ほどあります。だからどれだけの年月日本に住んだかが問題なのではなく、どれだけ日本人と日常を共にしたかが重要なわけですね。

 これ、逆も一緒だと思います。日本人がどこかの国へ出かけてどれだけの和を食べ歩いたかではなく、どれだけその国の人と深く触れ合ったか。言い換えれば文化を共有したのかと。

 とにかく外国や外国人に類希なほど強い興味を持ち続ける日本人。でも、その殆どは彼らを特別扱いするか、逆に自分たちの国が、自分たちが、そして自分がどう見られているのか、どう思われているのかばかりが気になってばかり。

 ただそこにたまたま肌の色と言葉が違う人間がいるだけ、という感覚にはなかなかならない。大げさなことではなく、ただ共に感じる、という技術も知識も要らないフィーリングを味わいたいだけなのに。

 実はこのことを僕はずっと前から感じていた、というのも彼女たちがとっつきやすかった原因かもしれません。20代前半の時にはアメリカの黒人と白人が仕事仲間にいたことや、20代半ばではアメリカ人のガールフレンドがいたり。20代後半は友人の黒人ダンサーと共にDJとしてクラブ巡りをしたり。

 日本は外国に認められたいばかりでそれ以外のことが見えなくなっているのか、それとも元々そういうことが苦手なのかはよくわかりません。

 僕としては彼女彼らを特別扱いするわけでも逆に強がって見せるわけでもなく、もちろん仲間なんて言っては取り込むわけでもなく、ただ友人として、隣近所のその辺の人として、フェアに付き合えればいいな、とずっと思ってきました。


 それが『スパイスジャーナル』をバイリンガルにした最大の理由です。

 創刊した2010年3月当時、わずかでも英語訳を載せている雑誌はあるのはありました。しかし、それらはどれも一部を翻訳しているだけ。少なくとも僕が調べたものはすべてがそうでした。でも、それじゃ意味がない。この本は2wayでなければと。で、考えたのが完全並列デザインです。見る写真も一緒。めくるペースも一緒。タイトルやキャッチも、テキストのすべてを英語と日本語で。

 おかげでたくさんの外国人から好評を得ました。ただ、当初は海外での販売を主としたかったのですが、僕も勉強不足で、特に日本の本の世界は排他的かつ閉鎖的極まりなく、いろんな意味のわからない制約やハードルがあり、とてもそれは乗り越えられませんでした。

 というわけで、国内の、外国人でもいける場所、ということで、大阪茶屋町にあるMARUZEN&JUNKUDO書店梅田店などへ営業に行ったわけです。こちらはどこよりも数多くの洋書を取り揃えており、数多くの外国人がきそうだったから。

2016.01.19

『スパイスジャーナル誕生秘話 ①創刊への道のり』

 スパイスジャーナルというミニマガジンを5年にわたり定期的に刊行してきましたが昨年の1月に休刊宣言をしたことをご存知のブログ読者様も多いかと思います。そして早くも年が明けて2016年。少しは大きく息をついて振り返ることもできるようになりましたので、このあたりでスパイスジャーナルを刊行した本当の理由について何度かに別けてお話していこと思います。

 今回はその第一話。まず、創刊の原点をお話させていただきます。

 時は遡って1999年頃。僕は縁あって三重県松阪市で小さな日替りインド定食屋『THALI』という店を営んでおりました。公私共にお世話になり信頼を寄せていた師、柏木氏にこんなアドバイスを頂いたのです。

「そろそろ自分で媒体を作ってごらんなさい。カワムラは時代に無関係な男だから、いつかきっと本になるなど、とにかく個性が売りになるときがくるよ。商業の世界はもう十分やり遂げてるし、今はようやくマイペースになったんだから、そろそろだよ。勉強になるしね」

 無駄口を一切言わず、嘘が大嫌いな人でした。代々の江戸っ子で、元は大手出版社勤めだったけど、晩年は大阪で小さな蕎麦屋を営んでいました。客より先に酒を飲んでしまうし、蕎麦を湯がく釜は毎回吹きこぼす。でも、誰よりも信頼のできる、とても格好いい人でした。

 そんな言葉の少ない師の言葉はとても重たくて熱い。

 以来、僕は教えられたとおりに準備を進めます。そのときに創り上げたのが、仮称「ウエストミーティング」という冊子で、すべてスパイスをキーワードにしつつもジャンルを超越したたコンテンツ。右側から日本語、左側から英語というバイリンガルの形。

 普通スパイスというとインドやネパールのイメージになりがちですが、ここでは様々な国の音楽、音楽家の感性、グラフィックデザイン、家具、食器、旅、日本などと、テーマは多岐に渡っているのが特長です。

 手造りの見本誌も出来上がり、柏木さんからOKももらいました。でも、それまでライターとして長い間活動して来た僕ですが、本を作ることはできても、配布方法がわからない。広告を募ってフリーペーパーにするのか、それとも価格設定して販売するのか。それならばどこでどうやって売るのか。どう運ぶのか。印刷はどこでどのレベルで。保管場所は。在庫管理は。その他たくさんの未知なる壁が立ちはだかったのです。

 柏木さんはこういいました。

「そうだなぁ、とりあえず印刷屋に見積もりしてもらって1人1万円ずつ募ってなんとかトントンにしちゃえばいいよ。ひとまずはフリーで全国の書店に配る。300店舗くらいなら俺が紹介してあげるから、50部か100部ずつとして15000か30000部で費用を計算してごらん」

 300店舗なんて数字が、なんの抵抗もなくすらすらと出てくるところがイナセな。でも基本軽く酔っているわけですけど。

 僕は忙しい合間を縫って印刷屋を探し回ります。当時は今のようにググる携帯もなければ、個人がパソコンをもつことはまだ少なかった時代。出版社のホームページさえも殆どなかったようなレベルです。とにかく自分の足と嗅覚と人の縁がすべてだった。

当時は本を作れるような印刷屋さんも数少なく、あったとしても一見さんはお断りか、そうでなくとも見積もりの依頼はうけてくれない。つまり殆ど相手にされない。

 で、ようやく見積もりをしてくれる業者がいたのはいいが、見ると30000部で150万円くらい! A4カラー16~24ページでです。

これではとてもやれないと思い、その後も暇を見つけては色んな方法で印刷業者を探すわけですが、いくつかが見積もりをだしてくれて、最も安価なところでも80万円くらいはしていました。今ならネットでちゃちゃっと入力して送信して、20万円もかからない。

 柏木さんに伝えると、ぼーっとした目でこちらを見て頬を赤らめながらにんまりと笑うだけ。恐れ多くて、どうしらいいでしょう!?なんて安っぽい質問ができる余地はない。こういうときは自分で考え苦しみやりぬくしかない、ということで。

 僕は思いつく場所や頭に浮かぶ人たちのところへお願いに周ります。こういう企画を考えていてどうか協賛していただけませんか、と。僕もそうだけど、みなさんもお忙しいですからなかなか話を聞いてもらうのも難しいわけで。結局集まったお金は30,000円でした。

 時はすでに2001年となっていて、いろいろあって松阪の店をしまい、大阪に戻ってきていた僕は、これまた色々縁あってライター業を再開しており、毎週東京と大阪を行き来しなければならない状況でした。

 100数十万円の募金を募ることと、編集作業をすること、印刷や倉庫の件、また配布営業に周ること・・・考えただけでも目眩がしてくる。こんなのできっこない。また、目の前の仕事が忙しすぎたことも断念した理由のひとつでした。

 それでも柏木さんは何も言わないんです。一言伝えると、また頬を赤らめにんまりとするだけ。で、ゆっくりと背中を向けたかと思うとビールの栓を抜いて、またゆっくりとこちらに振り向き僕にコップを手渡す。

 ゆっくりと注いだかと思うと「ほら、乾杯だよ」とぽつりと言って自分の飲みさしのコップを軽く当てるんです。たったこれだけの言葉でめちゃめちゃ心が震えたものです。媒体創出計画は、こうしてお蔵入りになったのでした。

 そして2004年に誰も想像だにできない悲劇が起こります。柏木さんが急逝するのです。なんとも不思議な話ですが、誰も理由がわからない。わかっていることは、死ぬ直前に、東京のご子息(次男さん)がようやく結婚するという報告を聞き、至福の酒を飲み、その帰り道で転んでしまった、ということだけ。おそらく頭を強くぶつけてしまったのだろう、となるわけだが、詳しいことは誰にもわからない。

 多くのファンが行きつけの店を失い、僕のように心の支えが消えてしまった人も多くいたと思われます。

 こうして、人生は容赦なく進んでいくのですが、本当に自分がやるべきことというものは、長い年月を周りまわってでも、再び自分の目の前にやってくるものなんですね。

 2009年の暮れ、世話になっていたウェブ関係の会社経営者の方からなんかの話の流れで、カワムラが本当にやりたいことって何?となって、ふと柏木さんと立ち上げようとした「ウェストミーティング」のことを思い出したのです。すると、その社長さんは「それですよ!それ!僕も協力するよ!」といって背中をおしてくれたのでした。

 柏木さんへの思いもあり、僕は迷わず前を向きました。

 時代は急ぎ足で変貌を遂げており、このとき、オフセット印刷で色校正までを経ても(一応ちゃんとした印刷といえばいいのか)以前とは比べ物にならないほど価格破壊していたのです。

 よし、今こそ!という意気込みでその年末から全力で準備を始め、ついに翌年2010年3月に創刊できたのです。当初思い描いていた形とは少しばかり違いましたが、根幹は揺るがず。

『スパイスジャーナル』はこうやって誕生しました。

2015.12.11

スパジャー動画久々の更新!

とにかく明るい、とにかくパワフルなインドの結婚式を動画にしました!

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