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カテゴリー「カワムラケンジ・アーカイブス」の記事

いままで雑誌などで連載した既出の作品集

2017.08.09

震災前のカトマンドゥの写真集を更新

前にネパールの友人と共にカトマンドゥを旅した際の写真集を再整理。

どかーんと写真を増量したので見ておくんなまし。クリックすると画面が大きくなりまする。

カトマンドゥの旅には何かと特別な思いがある。

僕が帰国してから1週間後に大震災があったこともそうだ。

あの時、すぐに友人に連絡を取ると、無事で何よりだったが、旧市街の建物がかなり倒壊してしまったようだった。

我々が歩き倒した、タメルという最も栄えている地区から少し南にいった旧市街はなかなか酷かったらしい。

路地を練り歩き、迫り出した古い建物を見上げながら二人で言っていたのである。

もし、地震なんかあると、これ全部ぶっ潰れちゃうぞ~、と。

すると、本当にそうなっちゃった。

このあたりには、世界遺産の古い宗教施設が多くあり、中でも地域庶民に最も愛されているヒンディー系のセト・マチェンドラナート寺院は思いで深い。

境内にたくさんの物乞いがいて、肌の黄色い僕を見つけるやいなや、だーっと近寄ってきて、銭か食べ物をくれ。友に聞くと、どうやら彼らは本物の物乞いらしく、寺院に供えられる食べ物をあてにして日々集まっているのだという。

確かに、あちこちに置かれているお金には手を出さない。職業乞食ならあっという間だろう。

ということで僕は、ある老人男性にギャラ3ルピーと持っていたミント系の飴で色々写真を撮らせてもらうことにした。
牛の石像をバックに、手を合わせて祈る人々をバックに、その辺にぼてっとしゃがみこむ様とか。そこには、絶望と脱力に染まりきった覚めた目と、俄かでは生れない、野良人ならではの荒れた肌や乾いてもつれた髪の毛が地面に垂れていた。

たぶんこの旅で最高のカットが撮れたに違いない。そう確信していた。

しかし、帰国後、信じがたいことが起こる。ブログでも書いたが、わが家のアホ犬クロが、その3ルピーのスーパーショットの入ったSDカードをくっしゃくしゃに噛み潰してしまったのである。

現代は、データ復旧屋さんというものがあり、腕に自信のありそうなところ何ヶ所かに送ってみるものの、どこも破損が酷くて復旧は不可能という。これはトライするだけでお金を取られるのだが、結局5万円ほどかかった。もう10万円払うと、もっとトライできる、でも復旧の保証はないという、なんだか嘘みたいな誘い文句で誘惑してくる業者もいたが、さすがに総額15万円はちょっと。

それだけ払うならもう一度行ったほうが安い、ということで諦めたのだった。

するとその3日後にあの地震が起こった。

あの寺院はどうなった?他にも巡ったあちこちの寺院は?友に聞くと詳しいことはわからない。でも、かなりやられているはずだと。

あれ以来、ずっと心の奥底に、カトマンドゥの幻がへばりついたままである。

posted by (C)THALI

2017.03.17

旅の数だけおいしさがある

先日、書物の探し物をしていたら、たまたま一冊の本が目にとまった。2005年発行の『山海の宿ごはん』だ。

これは大阪の老舗グルメ雑誌「あまから手帖」で「馳走の民宿」という連載をしていたものを綴ったムック(別冊)である。

できるだけ10000円以下、高くても15000円くらいまでの宿を味わいつくす企画で、おのずと民宿になるわけだが、建物や空間は気軽か簡易、時に人の家そのままでありながらも、実にクォリティのある料理が存在したり、それにかかわる人々がとてつもなく魅力的だったりする。

東は愛知県から西は愛媛県まで、主に西日本の30地域(宿ごはん)だ。もちろん全編、僕が自ら取材し原稿を書いている。

この本の特徴は、一軒の記事が長い。当時、A4サイズで写真も大きく入って6~8ページのボリューム。そして、民宿だからこそ実はありえる贅の極みに着目している、という編集技だ。

民宿という階級は言ってみれば、宿主の人間力が熱源のすべて。その殆どは個人経営のため、高級旅館やホテルのようにあれもこれも豪華絢爛な設備にできないし、手厚いサービスも難しい。

だからこそ、どこか一ヶ所にもてなしの心が集中する可能性が高いのである。それが「味」に集約されている民宿を編集者は綴ろうとしたわけだ。この視点はかなり斬新だし、勇気がいる。あるようでなかった、実は凄い企画なのだ。

そこに僕の得意なリアル目線をぶっこませていただいた。本誌は老舗のグルメ雑誌だからとにかく真面目なんだなぁ。

実際の旅というものは、そりゃ人によるけど、少なくとも僕の場合は台本がないところがポイントなわけで、もう大半が奇想天外なのである。

また、見た目や出来事として意外性がなかったとしても、一見ありきたりの町や自然に見えて、よく見るとぜんぜん違うなんてことはざらにある。

先日行って来た福島の旅でも、例えば西側の会津若松のほうへ行くと、同じ信号でもみんな縦型なのだ。何でかなと思っていると、連れが「この辺はドカ雪が降るから信号機が折れんだね~」。

そう、雪が重たいものだから信号機が折れてしまうのだ。とそんな感じで、信号機さえも旅の妙味となっていくのである。

本誌の体質と僕の体質はあまりにも、いや、もしかしたらまったく逆なくらいかけ離れている。なので、大半はNGを食らってしまうわけだが、それでも編集者はめちゃがんばってくれて、この寄り道体質の僕をできるだけ泳がせてくれたのであった。

どんな取材陣でも同じだと思うが、特に旅なんてものは実際にこちらが楽しめていないと全くダメである。その波動が読者に伝わってしまうのだ。

旅の本を読む人は、まず持って自分も旅好きのはず。寄り道こそが旅であるし、その気配は文章や写真であっても瞬時に見破られてしまう。

旅というものは、想像力というやんちゃなおもちゃをどれだけ使いこなせるか、で楽しみの深みは格段と変わる。国内か国外かではない。

人の数だけ旅の仕方がある。だから、その町や自然の魅力、そして味わいも旅の数だけあるということだ。

家と仕事場の間の道にも旅はひそむ。僕はそんなことを日々発掘してストレス解消につなげている。冒険は距離やサイズではない。

宣伝じゃないけど、もし機会があれば『山海の宿ごはん』を手にしていただければ嬉しい。まだ絶版じゃないようだし。

掲載されている宿はたぶんみなさん現役だ(と思う)。関西のみならず全国の旅好きの人々にぜひ読んでもらいたい(僕は原稿料制で印税ではないので儲からないけど┐( ̄ヘ ̄)┌ ~)。

重量を測ると600グラム! 価格はスパジャーの約2倍(本体1286円+税)なのに重さは5倍! お得でっせ!

Minshuku 入手可能か不可能かは確認できていません!なかったら古書屋か図書館ならあるかも)

2017.02.21

『魚河岸鰻遊』第七話 「もう一つの魚河岸、豊海埠頭」

カワムラケンジ・アーカイブシリーズ

『魚河岸鰻遊』

月刊誌『ソトコト』2005年7月号№73から2006年6月号№84まで全12話にわたって連載。作品性を保持するために時間軸など2005年の執筆当時と現代の相違部分の修正・調整はしていません。

今回は第七話「もう一つの魚河岸、豊海埠頭」(1600W)の生原稿です。

*無断転載等は固くお断りいたします。

『魚河岸鰻遊』第七話 「もう一つの魚河岸、豊海埠頭」(2006年1月号№79)

 魚河岸から見て隅田川の南東にある豊海埠頭は水産保冷庫ビルの銀座だ。僕が勤めていた酒盛物産では、魚河岸で鮮魚店を営むと同時に冷凍品の卸売もやっていた。魚河岸の中にも保冷庫はあるが、大量に扱う酒盛物産は豊海の一角に倉庫を借りていた。

 埠頭へはいつも2人組みで行く。相方は2歳年上の高澤雄三さんで、落語家口調の冗談が得意。なんや、東京にも芸人みたいな面白い人がそこらへんにいるやんか、と思わせてくれる人である。

 我々はトラックやフォークリフトの合間を抜けて中へ入り、金属的な雑音がしまくる大きな荷物用エレベーターに乗って上っていく。

 そしてまずは自動販売機でホットコーヒー(夏場でも)をすすってから、羽毛がびっしりの分厚い長靴と手袋、縫いぐるみのようなぼわぼわのパンツをはき、上半身にはエスキモーが着ているような毛むくじゃらの頭カバーがついたジャケットをはおる。

これで準備万端。いざ開ボタンを押してドアーの向うへ!

 庫内は息が白くなるより先に顔が縮んでしまうほど寒い。温度計を見ると零下約25℃。北極とほぼ同じだ。中にある有頭&無頭のエビ、蒲焼&白焼の鰻、鯖や鮭などは当然カチコチとなっている。

 ここで我々は新入荷品を搬入したり、在庫分を搬出したり、またオーダー分を取り出したりする。

 大きな荷を運ぶときはリフトを使うのだが、これがターレとはまた違っていて面白い。先端に蟹の爪のような2本の金属棒が出ていて、こいつを木製のパレットに上手にはめ込んで動かすのである。しかし、極寒の中。すぐに身体が固まって動けなくなってしまうので、執拗に無駄なことを大声で放ちながら行うのだ。

「ほぉ~れ!男だったら上手に入れろ、この野郎!」「じゃかましいわい、よう見とってやぁ」

 高沢さんは身体を動かしながら言葉と作業を繰り返す。この室内にいられるのは1回で10~15分程度。それ以上だと冷え過ぎて手足の感覚はなくなり、眼球はしょぼしょぼ、鼻からはナイアガラの滝のように水が流れだし、口は動かなくなって最後には無言となってしまうからだ。だが、若い僕らはずーずー弁みたいになりつつも長居する。

「う~い、ケンつぁん、すろすろ入って20分でぇ!おすっこすてぇんだけど、このまましちまぉうかっつって」

「ええんとちぁう?すぐ凍るやろし問題あれへんよ。やってまいって~」

 そこで本気でやろうとするのが高沢さんの面白いところ。しかし「あれれぇ~、身体が硬直しすぎて尿道が塞がっちまってるよ」と、それほど寒い。

 もちろん、このまま中で続けられるはずもないので30分ほどで外に出る。そして今度は缶のコーンポタージュや紅茶などを飲んではトイレへいき、そしてまた中に入るのだ。

 ただ、これを2~3回ほど繰り返していくと、普通の地上では得られない不思議な快感を覚えていくのであった。そう、零下のジャンクという世界が存在するのである。意識は朦朧、心臓の鼓動もはるか遠くで小さくなって力がないのに、妙にヘラヘラと笑えてくるのだ。

 庫内は各社ごとにフェンスで区切られていたが、他の会社の者で鼻にツララをつけながらにやにやとほくそえむ人を何度も見たことがある。室温が低すぎて青白い蛍光灯もチカチカと震えるように小刻みな点滅を繰り返す。

 我々の限界のサインは冗談が出なくなったときだった。そうなるともう危ない。すべてが静止に向かう零下の世界では、人間の温度のある声だけが頼りなのであった。だから1人で無理したり、相性の悪い者と入るのはあまりよくない、というわけだ。

 さて、肝心の冷凍物の味であるが、実は下手な鮮魚よりもよっぽど美味かったりすることがあるから侮れない。北欧の鯖などは生臭くないし脂はたっぷり、値は鮮魚の半分といった秀逸品だ。

 実際、多くの得意客は鮮魚と冷凍魚の両方を、状況に応じて仕入れている。魚河岸を支えているものは場内にある鮮魚ばかりではないということだ。

●メインカットキャプション

マイナス25℃~30℃が一般的な庫内温度。写真はマグロなど大物用の超低音冷蔵庫でマイナス45℃以上!
(撮影協力/(株)マリンプロダクツ)
 

【築地辞典】

●豊海埠頭

築地魚河岸も実は昭和初期に埋め立てられた土地である。その後、勝鬨橋を渡った南東に水産島の豊海ふ頭が、そのまた先に一般物流島の晴海ふ頭、もひとつ先に別名ガス島、発電所や鉄鋼所が根を生やす移転問題で揺れる豊洲ふ頭がある。

●有頭&無頭のエビ

冷凍エビの殆どはインドや東南アジアからのブラックタイガー。そして頭付きと頭抜き、また殻付き、殻剥きなどいくつもの種類がある。サイズは1ポンド(453g)に対した表示で、16尾から20尾(16/20)入ったものが標準。数が多いほど小さくなって割安になる。

●蒲焼&白焼の鰻

中国や台湾からくる冷凍鰻。こちらは多様な規格があり、有頭&無頭、素焼きの白焼、タレつきの蒲焼、1尾を半分に切って両方を串に打ったアミ串、3尾を4つに分けた4分の1串、1尾を半分にした正ポン半串、また串やカットをしていない長焼などがある。
 

【築地文化遺産】

7.手ヤリ/Te-yari

手ヤリとはセリのときに使われる指のことである。1の桁はピンと呼ばれ人差し指が一本。2はじゃんけんのチョキ。3はOK。4は親指以外を、5は全部の指を立てる。6は親指だけを立て、7はそれに人差し指が加わる。8は中指が加わり、9は親指と人差し指で摘むような形になる。人差し指を2回振ればピンピンで11となる。これは各地の市場によって少しずつ形が違うわけで上記のものは築地流ということだ。築地の商品数や仲買人は日本で、いや今や世界で一番多いわけで、セリは実に豪快でスピーディ、なおかつ多様な駆け引きが隠されているので面白い。独特のリズムで声を張り上げる台上のセリ人と雛壇のような台の上に並ぶ帽子姿の仲買人の戦い。この妙はまたの機会に話すとして、気になるのはこのセリがいつかコンピューター化するという噂である。
 

築地移転【みんなの声】

「ただのコンクリ&トラック市場なんて要らない」

なんと築地以外でも移転に関する様々な論議が交わされていた。所は移転先として挙げられている豊洲周辺。移転計画が公表されてから発足した「豊洲の街づくりを考える会」運営委員の渡辺哲三さんを訪ねてみた。
「移転すれば今の1.5~1.8倍のサイズになると言われています。つまりその分家賃は高くなるわけで、そうでなくても経営が苦しいこの時代、多くの仲卸が撤退や閉業をすることでしょう。さらに交通や公害の問題もあります。新市場は何本も橋が架かり、そこをトラックが横行する計画です。豊洲再開発でオフィスビルや数々のマンションが建つというのに、その共存は本当に可能かな。閑散としていて冷たいコンクリートビルの中を人ではなくトラックが行きかう市場?そんなの豊洲に作って欲しくないんです。魚河岸の本当の魅力は商店や買物客が行き交う人間模様にあるはず。いや、安易に反対ってわけじゃないんです。やるんだったら、みんなで誇りに思える本当にいいものを作ってもらいたいということ。都はそのことを本気で考えてくれてんのかな」

2016.12.08

『食はタイにあり』実感の食べまくりの美味紀行

カワムラケンジ・アーカイブシリーズ

〖『食はタイにあり』実感の食べまくりの美味紀行

関西の老舗グルメ雑誌『あまから手帖』1998年4月号№24にて全5ページにて展開。今回はたまたま完成誌面のデータを発見(ただし生原稿の所在はつかめず)。データが古いこととプライベートのブログということもあるのでそのまま公開することにします。

*無断転載・使用等は固くお断りいたします。
 

1.南アジアのオアシスはシルクロード料理があふれる。
2.リゾートホテルを拠点に街の様々な顔にふれていく。
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3.火鍋?しゃぶしゃぶ? タイ式ハーブ風味鍋
4.バンコクの昼下がりをホテルでゆっくり
5.シェラトン・グランデ・スクムビット・ホテル
6.ハーブマッサージ
7.水上マーケット
8.ハーブ&スパイス
9.ナイトライフ
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10.グルメの旅は市場が必須ポイント
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2016.11.27

『魚河岸鰻遊』第六話「捌きのサムライ」

カワムラケンジ・アーカイブシリーズ

〖魚河岸鰻遊〗

月刊誌『ソトコト』2005年7月号№73から2006年6月号№84まで全12話にわたって連載。作品性を保持するために時間軸など2005年の執筆当時と現代の相違部分の修正・調整はしていません。

今回は第六話「捌きのサムライ」(1600W)の生原稿です。

*無断転載等は固くお断りいたします。
 

『魚河岸鰻遊』第六話「捌きのサムライ」(2005年12月号№78)

 魚河岸は魚を売買するだけの場所ではない。店にもよるが多くの仲卸商店が顧客のニーズに合わせて様々な「捌き」というものをしている。

たとえば僕がいた店ならホテルや結婚式場などの大手の得意客が多く、数はもちろん常に同サイズを揃えることを原則とし、その上で鱗を剥いでワタを取る、といった捌きが必要となる。

しかも、多ければ200尾などという大量のオーダーが入り、ホテルなどはオペレーションが命だからとにかく迅速でなければならない。

ましてや東京は慢性渋滞の街。配達、搬送の時間を考慮しつつも、朝からひたすら包丁仕事となることもあった。それでも間に合わないときは、お得意さんの厨房に入り込んで手伝うなんてこともある。鮮魚は本当に時間との勝負なのだ。

 ここで少し鯛の捌きについて。まずは左側に仕入れたケースを、右側に空の容器を山積みにする。そして左手で鯛を頭から持って取り出し、まな板の上に乗せて今度は右手にもった専用の道具で鱗を剥ぎ落す。

ここで焦って力を入れすぎると逆に鱗が取れないので、抑えながらあわてず傷をつけないように丁寧に、尾から頭に向かって迅速に引くのである。

これを終わらせると次はワタを取る作業。やや右の腹に斜めに少しだけ刃を入れて、左手で腹を抑えるような格好で上手に抜き取る。食べる人の前に並ぶとき魚の頭は左に向くわけだから、切り跡は少しでも見えにくいようにするための流儀である。

こんな面倒臭いことを当時の平均で1日50~100尾分は繰り返す。1尾を15秒で捌いても一人でやれば30分、200尾もあればマッハでやり続けても50分ほどを所要する。でも本当はこんなに時間をかけていられないわけで、実際はもっと早いはず。

 魚河岸ではほかにも様々な捌きシーンを見ることが出来る。妙に面白かったのが僕のいた店の左斜め向かいにあった貝専門店だ。

腕カバーをした3~4人の女性が「トン!カカッ!ブチュン!」と、なんとも早くてリズミカルな音を立てながら、ひたすら赤貝を剥くのだ。

分厚い貝殻を右手に持った小さな貝剥き具でトン!カカッと叩き割って、中身だけを傷つけずにブチュンと容器の中へ落としていく。地味な動きであるが、これを寝てもさめても毎日延々と繰り返しているのである。心底、見事な芸当だと思った。

 そして築地といえば、やはりマグロなしでは語れない。店の左斜め前が貝屋だったのに対し、右斜め前はマグロ屋であった。

当時のマグロ屋には、ほんまにヤーさん顔負けの怖そうな兄ちゃんがいっぱい(今は紳士が多い!?)働いていて、中にはスキンヘッドにマグロの血がべっとりと滲んだサラシ姿の人もいた。

そんな強面の男たちがあの巨大な肉の塊を捌く、いや肉のように解体していくのだから迫力満点だ。

まず、驚くのは使う包丁が日本刀のような長い物から、時代劇でよく目にする小太刀風のものまで何種類もあること。さらに数人がかりで巨肉を持ち上げるその様も豪快である。

最初は頭と尾を落とし、次に縦4つ。その後は徐々に短い包丁に持ち替えて、やがては、いわゆるブロックとなる。真っ赤な身を捌き倒すその姿は見ていて、やっぱりマグロは築地のスターなんだなと痛感する。

 最後に驚きの捌き芸をもう一つ。アンコウの吊るし切りである。やや広めの店なら店頭で、小さい店なら路地の広い場所で、そのエイリアンの口にごっつい金具をひっかけて、腹を一気に包丁で切り裂くのだ。

するとワタがベトボチョブロ~ンと飛び出てきて、しばらくそのまま放置するのである。

こちらが急いで路地を曲がった途端に、突然こんなもんが目線の高さで立ちはだかるもんだから、下手なお化け屋敷よりもびびったりする。店の人間もきっとそれを狙って、わざわざ目立つところに吊るしていたのではないか。

 魚河岸というところは、このようにあらゆる魚と刃物の修羅場、迅速かつ丁寧な仕事が日常繰り返されており、そして何よりも根性が鍛えられる場所なのである。
 
 
【築地辞典】

●ウロコとり

歯ブラシのような形をした金属100%の道具である。微妙に反っているので魚にがっちりとあてて削ぐとよく取れる。力任せで剥ぐと身に傷がつくので、力を入れつつも強引に引いてはならない。しかし、この一見単純な作業が本当に面倒くさい。

●貝屋

魚河岸の中にはこのように貝屋やマグロ、淡水魚、カニと海老、それ以外は一般鮮魚などとジャンルが多様に分かれている。捌きに関してはほかに、鰻裂き、各種海老の殻剥きや足もぎ、電ノコで切断するボディが長いカジキマグロ(冷凍)などもある。

●包丁

マグロ切り包丁の長い物は150センチもある。貝屋は貝剥き、一般鮮魚屋は鱗取りや一般的なおろし包丁、鰻屋は目打串と鰻包丁。ちなみに江戸式の鰻包丁は木の柄がついているが大阪式は柄のないむきだしの鋼製。京都式は木の柄だが刃はナタのように太くて短い。
 

●文化遺産

おろし包丁/Oroshi bocho

マグロ解体に使う刀のような長い包丁をご存知だろうか。実際には板前が使うような小さなものから、60~70センチクラスのものなど多数の包丁を使用するが、身を4つ割りにしたりするときはこの長い包丁を使うのが江戸の伝統である。これは日本橋魚河岸時代に『東源正久(あづまみなもとのまさひさ)が生み出したものだ。刃渡りの長さは最大企画っで4尺8寸(約145センチ)。「これほどの長いものを使っているのは魚河岸の中でも2~3軒でしょう」(築地店店主談)。値段は25万円前後というこれまた魚河岸でおそらく最も高価な道具であろう。「サイズはマグロに合わせて年々大きくなってるね。20年前まで(*2005年当時からみて)は4尺(約121センチ)。それまでは2尺(約60センチ)。マグロの取引が急増しだす明治後期頃の生まれ。現代、世界のマグロの約半分が築地に集結するといわれるが、この長いおろし包丁はその証といえる。
*東源正久築地店 03-3541-8619(日本橋店も健在)

2016.11.21

『魚河岸鰻遊』第五話「軽子が行く」

カワムラケンジ・アーカイブシリーズ

〖魚河岸鰻遊〗

月刊誌『ソトコト』2005年7月号№73から2006年6月号№84まで全12話にわたって連載。作品性を保持するために時間軸など2005年の執筆当時と現代の相違部分の修正・調整はしていません。

今回は第五話「軽子が行く」(1600W)の生原稿です。

*無断転載等は固くお断りいたします。
 
 
『魚河岸鰻遊』第五話「軽子が行く」2005年11月号№77)

 先日、10数年ぶりにターレーに乗った。ターレーとは前に直系1mほどの円柱型のエンジンがついていて、後ろが荷台になっている市場ならではの乗り物だ。

かつてはガソリンだったが、今では公害問題で音の静かな電動タイプになっている。しかし、道の凸凹を直接拾ってしまう乗り心地の悪さと、ちょっとでもハンドルを切ったりアクセルを開ければ振り落とされそうになるその瞬発力のよさは昔のままだった。

 築地市場場内。

「おぃこらぁ、ケン坊! なに油売ってんだ、この野郎~」という声が聞こえてきた。振り返るとそこにターレーに乗ったシバノさんがいた。このオヤジ、かつては泣く子も黙ればスジの人も道を譲るといわれたほど恐れられていた名物軽子である。

今は白髪が目立ち、少々曲がった背中がさすがに威力の衰えを感じるが、それでも細い目の奥には眼力があり、今にでも蛮声を上げんばかりに下顎は尖っている。僕は古い記憶が身体に蘇り、一気に緊張して直立不動となった。

「いえ、あの……その、先日の取材でお世話になった店に本をもって挨拶に……」

「取材? おめぇ今何やってんだ? その手に持ってるもん見せてみろ!」

 僕は恐る恐るシバノさんに近寄り本を一冊そっと手渡す。すると、がばっと掴み取ってそのまま汗で湿った腕と腹の脇に挟み込み、顎で僕に「荷台に乗れ」と合図する。ブルンブルンブルン……。

僕はすぐさま飛び乗り、シバノさんの背中に張り付くような格好でターレーの鉄棒に?まった。

 時刻はまもなく12時。市場の喧騒が一段落した変わりに、横丁の食堂街は一般客でごった返しつつあった。人の群れを掻き分けるようにシバノさんはターレーを走らせる。

僕は今からシバかれるかもしれないなどといった中学生時代によく感じた恐怖心と、荷台に染み付いた魚の生臭さに対する懐かしさを同時に感じ取っていた。

 しばらくして加工場に到着。シバノさんはゆっくりと地面に降り立ち、指に唾をつけてペラペラと本を開きだす。ピラピラ、ピラ。僕は硬直しながら書いているページにゴメンナスッテと手を挟む。

「ここです! こんなことを書いてます」

 それは魚河岸鰻遊の第一話。シバノさんはそのページの上で5秒ほど固まった後、僕に本を突き返してゆっくりと加工場の方に身体を旋回させた。

「ケン坊はちゃんと字が書けたんだなぁ、てぇしたもんだぁ」

 僕は氷が解けていくように顔を緩め、加工場の中へと消えていくシバノさんの背中を見つめながら、ターレーや昼食に急ぐ人々が行き交う通りで一人立ち尽くすのであった。

 軽子。それは小車やターレーを使ってセリ落とした荷を、店や茶屋まで運ぶ専門の仕事人。今ではその数も激減しているようだが、元々魚河岸では仲買の番頭、捌き、帳場などと各々の役割を持つ職人が存在した。

無数の魚介が勢揃いし、幾多もの業者が往来する雑踏の場内においては築地特有の交通秩序というものがある。信号や警備員ではなく各人のモラルと呼吸が、時に威厳やその人の持つ存在感みたいなものが瞬時にルールを律する。

相手がどんな荒くれた地方のトラック野郎であろうが、刺青のある人であろうが、日本語を話せない謎の国籍人であろうが関係ない。築地魚河岸の混沌を操っているのは間違いなくこの軽子たちなのである。

 シバノさんのような人は魚河岸にはなくてはならない存在だ。書くことを得意とせずとも。文化や秩序というものは理論のみにあらず、こんな人間のすこぶる熱い体温で形成されていくんじゃないかな。

*シバノさんは昨年ご逝去されました。不況と共に晩年はコグルマを引退し番頭として店に立ち続けたといいます。偉そうぶる奴や狡い奴が大嫌い。僕はシバノさんのべらんめぇで何度助けられたことかわかりません。厚い義理人情と高い意気地という心でもって、最期まで築地魚河岸の縁の下を支え続けました。
 

【築地辞典】

●加工場

仲卸商(仲買)の殆どは鮮魚を売るだけでなく下処理作業も行う。場内の店舗は狭いため、場外のテナントなどを借りて加工場を別に持っていたりする。顧客のニーズに合わせて鱗取り、ワタ抜き、活け締めなどを行う。

●帳場

仲卸商店に必ずある。要はお金を扱う場所のことで、電話ボックスのようなサイズとスタイル。中にはそろばんや電卓、各客宛ての伝票などがぎっしりと収納されている。軽子同様、帳場専門の職人が存在し、多くは女性の仕事となっている。

●横丁

新大橋通り(市場通り)に面する正門近くのいくつかの棟を「魚河岸横丁」という。建物の中には寿司や喫茶店、各食堂などがざっと40軒弱、乾物や一般食料品、調理器具などを販売するショップも多く、一般客が気軽に立ち寄れる場所として人気が高い。
 

●文化遺産

小車/koguruma

市場内外でよく見受ける人力台車のコグルマ。人によってはカルコグルマ、ネコ、クルマとも呼ぶ。元々、米や野菜を運んだ大八車がモデルになったという説があるが、現代のスタイルを確立したのは日本橋魚河岸時代(大正期)に創業した(有)桐生製車である。時代に応じて改良を重ね、今のスタイルはどんな喧騒の中でも練り歩くことができて、かつ荷物をたっぷりと積み上げることのできる限界のサイズ、幅約50cm×長さ約2m80cmのバージョンだ。骨組みは木製だが、車輪には鋳物にゴムを焼き付けるという特殊なデバイスが施されており、タイトな魚河岸に対応し尽くしたハイスペックな仕上がりとなっている。そのパフォーマンスに惚れて、一時は全国各地の漁港からオーダーが相次いだこともあるという。豊洲移転の理由の一つに安全でスムースな流通機能というのがあるが、それはトラックなどの自動車をベースにしているので、このカルコグルマは消失する可能性がきわめて高い。

2016.11.18

『魚河岸鰻遊』第四話「食い倒れグランドスラム」

 
カワムラケンジ・アーカイブシリーズ

〖魚河岸鰻遊〗

月刊誌『ソトコト』2005年7月号№73から2006年6月号№84まで全12話にわたって連載。作品性を保持するために時間軸など2005年の執筆当時と現代の相違部分の修正・調整はしていません。

今回は第四話 「食い倒れグランドスラム」(1600W)の生原稿です。

*無断転載等は固くお断りいたします。
 
 
『魚河岸鰻遊』第四話「食い倒れグランドスラム」2005年10月号№76)

 
 当時20代前半の僕にとって魚河岸という場所は、中央市場というよりも食い倒れのグランドスラムといった感覚が強かった。

扱っている魚はもちろん、それ以外にも手を伸ばせばすぐにでも届くような場所に数々の名飲食店が溢れていたからである。

 まずは場内海幸橋近くの食堂街にある「豊ちゃん」から。揺れる暖簾に乗ってカツやエビフライの芳しい油の香りが漂う店だが、味噌汁の味の薄さと白衣姿の店のオッちゃんたちのやる気のなさがクールで渋い。

続いて2軒隣のカレー屋「中栄」は実にホット。めちゃ狭いコの字カウンターに座ると、ママさんが鼻に抜ける声で「いなっすぁ~い」、直後に奥からコックさんも「いなっすぁい」と言う。一応、甘口のビーフ、辛口のインドカレー、トマト味のハヤシがあるが、僕のオーダーは決まって「インド大盛り玉オチ味噌碗」。カレー大盛りに卵入りの味噌汁をつけたものだ。辛いのに熱い、猛暑でも熱い。そんな鍛冶屋が打つ鉄のような強靭さと、ぽってり小麦粉の柔らかさ、スパイスの焦げたような香ばしさが見事に一体となった、ハイカラの大正ロマンを感じさせる店だった。

 ほか「茂助」の団子は疲労を癒してくれる甘いパートナー。串に打たれた漉し餡団子をターレに乗りながら食うことができる。

そして一番端の全国チェーン「吉野屋」も見逃せない。何を隠そうここが1号店なわけで、同じ牛丼でも築地の偉力を感じる味わいだった。

 さらに場外の新大橋通り沿いにある食堂街も忘れてはならない。最もはまったのは「井上ラーメン」で、色や風味はあっさりだが塩分が利いていてロードワーカーにはもってこいの味。それに500円のキャッシュオンデリバリー、おまけに山盛りのごっつい熱いスープの中に親指が浸かっても表情一つ変えないオッちゃんも侍のようで格好よかった。

 ちなみに場内正門側の棟にも食堂街はあるのだが、こちらは一部を除いて寿司屋などのハイクラスな店が多く、河岸の長老や偉い人、また町の玄人(寿司屋の板前など)が行くセレブゾーンのイメージ。安い早い美味い、がポリシーの我々ド庶民には無縁の場所であった。

 そして、いよいよ究極の食い倒れであるが、それは「店のマカナイ」。

一仕事を終えた9時頃、店の裏側においてある炊飯器からは炊けたばかりの米が真っ白な湯気をフワフワと立ち上げ、コンロの上では味噌汁が熱々になっている。そこに今日の目玉のネタを加える。

時にヤリイカをそうめん状にして山葵醤油で、時に脂が乗ったイワシを開き、炊き立てご飯の上に乗せてショウガと醤油をぶっかけたり。

またある時はスプーンをもって向かいのマグロ屋へ行き「すんませ~ん!中オチください!」なんていいながら、箱に捨ててあるアバラから真っ赤な身を削ぎ落とし、それを醤油ヅケにしたり。たまに帳場のネーさんなんかが漬けてきたイカの塩辛なんかもあったりで、もうたまらない。

 “食うには困らないことが困る町”

それが築地である。だが、昨今はちょっと様子が変わってしまったようで、先日、とても世話になった先輩のワチさんがこう言っていた。

「マカナイはもうやってないんだよなぁ~。俺もあの頃が懐かしいや」と。

現代(*2005年当時)の河岸は夜中の1時や2時から(以前は5時頃)始業するらしい。一応、セリをやりつつも実際の仕入れは早い者勝ち状態になっているからだ。

結果、各スタッフの働く時間に大きなずれが生じ、さらに執拗なまでの火気厳禁化、加えて不況による店の縮小で場所が狭くなったこともあって、マカナイはおろか、外食をするムードもなくなったという。これは僕がいた店に限らず、場内の殆どが同じ状態にあるらしい。

先述の各飲食店は店員の世代交代はあっても、昨今の観光ブームのおかげでなんとか健在でよかった。だが、最近の仲卸商では「よくて家の弁当、あとはコンビニ!」。河岸人相手のマカナイ屋でもやれば流行るかな?
 

【築地辞典】

●場内/場外

場内とは魚河岸のことで、正確には東京都中央卸売市場のことを指す。晴海通から築地6丁目交差点を南へ向かった海幸橋の先がそのエリア。場外とは築地場外市場のことで場内以外の晴海通と新大橋通に囲まれたエリア。
 

●吉野家

1899年、築地魚河岸の前身である日本橋市場に誕生。築地のスローフードを背負う人々のために生まれたファーストフード。魚市場に牛肉文化を持ち込んだことはやっぱり凄い。

 
●セリ

卸売業者(河岸では荷受と呼んでいる)が仲卸業者(仲買とか仲卸と呼ぶ)に売る行いを意味する。一般的な魚の流通は、漁師または漁師を元締めする企業→荷受→セリ→仲買または認可を持つ量販店や飲食業者→小売業者や飲食業者となる。
 

【築地文化遺産】

4.築地場外市場/Jo-gai

一般的には場外と呼ばれている。ただ場内は都が管理する市場であるのに対し、場外は民間が経営する商店の集合体、言わば商店街のようなもの。よって一般客のために存在しているわけである(場内は基本的にプロ相手)。築地に市場が誕生して以来、自然発生的に増加してきたエリアだが、現在の店舗数(*2005年当時)は350店を越えるという。その構成も実に多彩で、一般鮮魚はもちろん、マグロなどの大物商、塩干屋、乾物屋、調味料を一式そろえる小物屋、包丁や什器などの道具屋、箸や包装類を置く紙店、鳥や豚の精肉店、寿司ネタの玉子焼屋、ほか最近では上質ネタを扱う回転すし屋、場内の仲卸商が営む食堂、老舗のラーメン店など、どこも間違いのない質と良心価格の店ばかりだ。中には「場内よりもこじんまりしてて歩きやすいので」と、場外で仕入れを済ませるプロもいる。築地ブランドは場内と場外の二人三脚で支えられえきたということだ。築地にとってなくてはならない存在だ。

2016.11.11

〖魚河岸鰻遊〗第三話 「築地スピード」

 
カワムラケンジ・アーカイブシリーズ

〖魚河岸鰻遊〗

月刊誌『ソトコト』2005年7月号№73から2006年6月号№84まで全12話にわたって連載。作品性を保持するために時間軸など2005年の執筆当時と現代の相違部分の修正・調整はしていません。

今回は第三話 「築地スピード」(1600W)の生原稿です。

*無断転載等は固くお断りいたします。

 
〖魚河岸鰻遊〗第三話「築地スピード」2005年9月号№75)
 
 僕はいつものように朝5時08分の東武伊勢崎線竹ノ塚駅発、日比谷線中目黒行きの先頭車両に飛び乗る。そして後部、繋ぎ目横の座席にドカッと腰掛け、右肘を付いてしばし再眠。

が、侍センサーだけはスイッチを入れてあるので33分後に到着する築地駅の寸前で必ず目が覚める。目を開けてみると先までガラガラだった車内はいつのまにか長靴を履いた侍たちで鮨詰状態。

5時41分、スタートの鉄砲がなるかのようにドアが開いたその瞬間、この長靴侍は細い1番出口の階段を競い合うように駆け上がるのであった。そして築地本願寺の中をいっせいに抜けていき、河岸の裏門である海幸橋へと傾れ込んでいく。

 場内はすでに大小様々な物体が激しく蠢いている。2~4tクラスのトラックがジワジワと前へ後ろへと車体を移動していたり、その横をバンバンとエンジンを吹かしながら滑走しつつ機敏な小回りも見せるターレ、またゆっくりだが休むことなく確かな動きを見せる小車、そして忍者のように足早に歩く人間。

大阪ではよく「世界で一番歩くのが早いなんて言われてるから大阪人はもっと落ち着くように!」などと耳にしていたが、この有様を見るとその心配はまったく必要ないことがよくわかる。

僕はこのウネリの合間を縫うようにして場内「太誠」まで走り続ける。

「おはよーございまっす!」
「おおぅっす!」

 6時前。上着を脱ぎ捨てそのまま中央に位置する売り場まで走る。そして、先に来ている運び担当の柴田さん、タッちゃん、キュウさんのオッサン3人組の姿を探しつつ、山積みとなった品物の中から「太誠」の札が入ったものを物色していく。

春から初夏にかけてならカツオにアジ、アイナメ、カマス、そして関西では殆ど見ることのないトビウオなどがズラリ。忙しい日は1種類の魚だけでも10箱以上。箱の中には海水や氷もたっぷり入っているため見た目より倍ほども重たい。

これを小車に素早く、かつ崩れないように巧く積み上げていくのだ。人々は6時15分までには店か茶屋に運び出したいと思っている。早い買い出し人なら7時頃にやってくるし、またこちらからの配達にしても朝一を希望する得意客も多いわけで、とにかく街が本格的に目を覚ます前に勝負しておきたいのである。

仲買の数はざっと1000店以上(2005年現在は7~800店)。実際に荷を動かす人間の数は当然それ以上。15分で数え切れない荷と人が一挙に動くわけだから、その様は地殻変動級、歩く早さも常人の3倍速モード、ついでに人や物がぶつかったりするのも確率変動する。

 が、不思議なことに、事故や喧嘩とまではならないのがこれまた築地の凄いところなのである。魚の目利き、それとも捌き、はたまたセリか?いやいや、魚河岸で言う職人芸の第一歩はこのスピードについていけるか、と思えてならない。

トラック、ターレ、小車、人間の4次元の共存競泳。もちろん、中にはドン臭い人、遅い人、ひたすら荒っぽい人などもいる。そんなときは怒鳴られながらタックルされるか、踏まれるか、時にはターレで突かれたりもする。だが、警察も保険屋もいないので、結局は自分たちでモラルを保っている。

一方、達人となると本当に格好いい。迅速、かつ丁寧、でいて表情は常に穏やかで紳士的、そのくせ時にロケットスタートを切ってみたり、またある時は目にも留まらぬスピードで幅1mの華麗なコーナーリングをしてみたり。

これはもはや長靴のアラン・プロストというべきか。そう、河岸人はみんな歩くF1レーサーなのであった。

 8時か9時頃。荷の運搬、仕分け、茶屋だし、などといった一連の作業を終え、ようやく一段落がついた頃に多くの河岸人は朝の腹ごしらえをする。

ここでは場内外の食堂や持参の弁当など、みんな各様であるが、太誠の場合は手作りのマカナイに徹していた。これが、痺れるほどの幸福な時間なのである。ふむ、次回はこの痺れるマカナイについて書こうか。
 

【築地辞典】

●運び担当

文字通り荷の運搬を主としている人のことで、競り落とした品物などを店や茶屋へ運ぶことを言う。手、小車、ターレなどと運び方も色々。古くは軽子とも呼ばれ、元々は船着場に下ろした荷物を運ぶ人のことを指す。

●札

幅9センチ、長さ12.5センチほどの一枚ずつすぐに剥がれるメモ用紙のようなもの。各店の店名や紋などが入っていて、競り落とした商品や買い手の決まった商品などに番号や客名などを書いて荷に貼り付ける。

●茶屋

市場内、仲卸が並ぶエリアのすぐ横にあり、駅のようなホームのようなスペース。中で買われたものや行き先が決まった商品などが集結する場所で、ここからトラックに積まれて配達する。

●ターレ

正式にはターレットというらしいが河岸人は皆ターレと呼ぶ。前方に円錐形のエンジンがあり、それがそのままハンドルとなる。後ろは荷台。体感最高速度はざっと30キロほどか。さほど早くもないのに音がうるさいので迫力がある。重たいようだが3輪車なので乱暴に運転すると転倒することがある。

●小車

通称「ネコ」と呼ばれている。売り場から店や茶屋など、場内で荷を運ぶときに使われる。取っ手付きの1軸2輪なのでリヤカーと同じ構造と言えるが、囲いがなくて細長い。混雑を極める築地ならではのスマートさがたまらない。
 

【築地文化遺産】

3.魚河岸/Kashi    

正確には「うおがし」。だが築地市場の人々は、市場のことをあくまで「かし」と発音している。調べてみると、この言葉は元々、東京・日本橋に魚市場があった時代に生れたようで、つまりは地方のみならず千住や大田の市場でもなく、まぎれもなく築地魚市場を指しているのであった。かつて、魚の商いをするのは全国的に河岸が常識だった。その理由はまず、そもそも魚は水の中の生き物だということ。次に魚を積んだ舟が川の流れを利用し
ていたこと。ほか、衛生的にも都合がよかったことなどがある。当時の人々は、潮の干満に合わせて舟を岸に着け、捌いた後の魚のワタなどを河に戻したり、その水で魚や道具を洗ったり、きっと水という自然の恩恵に頼っていたに違いない。現代は飛行機とトラックの運搬、そしてコンピューターによる管理が主流となり、正式名称は「卸売市場」となっている。「かし」という言葉には築地を愛する人々の様々な思慕が詰まっている。

2016.11.08

〖魚河岸鰻遊〗第二話 「タレに思いを」

 
カワムラケンジ・アーカイブシリーズ

〖魚河岸鰻遊〗

月刊誌『ソトコト』2005年7月号№73から2006年6月号№84まで全12話にわたって連載。作品性を保持するために時間軸など2005年の執筆当時と現代の相違部分の修正・調整はしていません。

今回は第二話 「鰻」(1600W)の生原稿です。

*無断転載等は固くお断りいたします。

 
〖魚河岸鰻遊〗第二話 「タレに思いを」2005年8月号№74)

 ある平日の夕方6時頃。足立区竹ノ塚駅から歩いて5分のところにあるアパートの2階で僕は鍋を睨んでいる。

毎朝5時過ぎの始発で築地へ向かい、帰宅は遅ければ10時頃。夕食を自分で作るのは月に1~2度しかない。でも、僕はこの時間を彼女とパチンコの次に大事にしている。アキバのゲームソフトの如く、カメラ小僧のレースクイーンみたく、僕は手料理という世界にカルト的狂喜を見出していた。

立ちあがる湯気に鼻を当て、ティスプーンで味見を繰り返す。そして、白黒の砂糖や醤油の種類を使い分けては、鍋の中で煮詰まっていくタレと問答を繰り返す。

辛さはどうか、トロミはどうだ。今、僕が作っているのは鰻丼用のタレである。

東京に来てから何度目かのトライであるが、これがなかなか思うようには仕上がらない。東京の鰻のタレは大阪のそれに比べて、トロミと甘みがなくて、辛口、いや少し繊細な感じがする。

食感は蒸しの有無で変わるが、肝心の味のほうはこのタレで決まる。僕の両親は静岡出身。ゆえに僕にとってこの東京風味はノスタルジックな味でもある。だが、なにも懐かしむためだけにここまで躍起になっているのではない。モチベーションの最大の原因は自分が元々飲食業だったと言う性分と、僕の中に潜む無形のストレスであった。人生が思い通りにならないごっつい苛立ちのことである。

 そもそも僕が上京した理由は魚河岸で働くためではなく「夢のレストラン計画」と言うものを実現するためであった。

そのきっかけとなるのが前回に登場するマコちゃんで、彼が以前勤めていた大阪の会社で僕と出会い、「その企画を東京でやってもらいたい」と言われにょろにょろと東京に上ってきたわけである。

が、その後いろいろとワケあってこのプランはお蔵入り。気がつけば僕は活鰻が入ったビニール袋に酸素を詰めては輪ゴムでパチンと縛って三越なんかに配達したり、魚河岸で魚を売ったり何百尾もの鯛のウロコをはがしたり、加工場でイクラの詰め替えや冷凍イセエビなどを箱に詰めていたのである。

 ユニフォームは水色の上下に膝まであるゴム長。冬なら寒風と氷水で頭も腕も感覚を失い、全身には魚の臭いが染み付いている。夏ならクーラーの効かないポンコツライトバンに乗って八重洲や四谷あたりのビジネス街を配達に回り、キューティクル満開で風になびくOLたちを獣の目で凝視、綺麗にカリアゲしたスーツ族の男たちを羨ましく思うばかり。チクショー!俺もいかにも東京人って言われた~い。

 その逃げ場のない、野獣ばかりの鑑別所的ライフスタイルにストレスを感じずにいられない。だからこそ、僕は今あるこの現実を3倍凝縮モードで自分のモノにしなければ気がすまなかったのである。

河岸では言葉や理論を必要としないし通用もしない。ただ、ひたすら気合いを入れて混雑する細い路地を素早く歩き、力いっぱい荷物を持ち上げ体力を振り絞るのみ。

だから僕は合間を盗んで場内外の飲食店を食べ歩き、飲食関係のあらゆる本も購入、また得意先の厨房を観察し、たまに料理人たちの話も聞かせてもらうのだ。

そんな毎日の中で自分がもっとも多く接していたのが冷凍、加工、活の各種の鰻であったのだ。

 国内産、外国産、背開き、腹開き、蒸し、焼き。鰻の味とその風情は全国各地で確かに違う。だが今の時代、産地や処理状態を問わずともどの鰻もそれなりに旨いもの。だから、地域や店によってもっとも違うのは名脇役ともいえるこのタレではないか。

 さて、ようやく出来上がったタレを台湾産の冷凍鰻の上にかけてみる。ふむ、すーっとご飯に染みつつも微妙な照りと香ばしい赤黒い光を放っている。鰻の甘みの後にキリッと辛味がきて、火加減よろしく角の取れたまろやかな味がする。これで東京風味をまた一つ手に入れることができた。よっしゃあ!

 
【築地辞典】

●活鰻

かつまん、と読む。築地はマグロや海鮮魚のイメージが強いが、実は鰻やニシンなどの淡水魚も多く扱っている。活鰻は国内外のものがあるがその殆どは養殖モノ。でも、天然モノよりも皮が柔らかく身のきめも細かい物が多く、供給量も価格も安定しているので実に良心的な素材と言える。

●台湾産の冷凍鰻

築地(日本)で取引される鰻を大別すると、国内の養殖&天然、海外の活&加工品となる。国内産の養殖に対する天然モノ比率は’03年で約2.7%。海外産の活鰻は台湾(一時期は香港やマレーシアも)が全活鰻の約40%を占めるが、加工品部門(冷凍、その他)ではかつてトップだった台湾を中国が追い抜き(‘92年頃から)今では95%を占めている。

●鰻丼のタレ

一般的には鰻の良し悪しが話題になるが、実はタレほど地方や店によって味の違うものはない。関東は濃口、またはダシ入り濃口を使用するのが基本的だが、みりんや砂糖を関西ほど入れないせいか、味のほうは意外にすっきりとしている。中部地方などでは黒蜜を入れるところもあり、真っ黒であま~いタレが多い。

 
【築地文化遺産】

2.魚河岸マーク

力強いタッチで描かれた丸い魚河岸マーク(紋所)。水産関係のトラックやすし屋、居酒屋、時にはTシャツや手拭いなどでしばしば見受けることができる。内容は「魚がし」、つまり築地を意味しているのだが、実はこれ、原形と進化形というものが存在する。その起源は明治初期の日本橋魚河岸時代。現代でも場内で店を構える暖簾や提灯の「浜のや商店」が、初代より代々にわたって作り上げてきたものである。それで完成を遂げたといわれるのが5代目浜野屋繫三氏。先端に毛筆を取り付けた竹のコンパスによって円や微妙な曲線を描き、また絶妙な幅を持って濃淡とかすれを表した墨は実に生命感と気品に満ちている。ただし、これは商標登録を取らぬまま現代に至っており、今では似て非なるもの、また原形を基に各店各様の趣向を加えた進化形が無数に存在しているのが現実。

小林紙店(浜のや商店の家族店) 03-3541-6804 場内魚がし横丁7号館 元祖魚河岸マークのステッカーは、10センチから40センチまでの5種類で600円~。(価格は2005年7月当時)

2016.11.03

〖魚河岸鰻遊〗第一話 「築地の神様」

カワムラケンジ・アーカイブシリーズ

〖魚河岸鰻遊〗

月刊誌『ソトコト』2005年7月号№73から2006年6月号№84まで全12話にわたって連載。作品性を保持するために時間軸など2005年の執筆当時と現代の相違部分の修正・調整はしていません。

今回は第一話 「築地の神様」(1600W)の生原稿です。
 
*無断転載等は固くお断りいたします。
 
 
〖魚河岸鰻遊〗第一話 「築地の神様」(2005年7月号№73)
 

 2005年5月某日、僕は築地魚河岸横にある波除稲荷神社のご本殿の前に立ち、ポケットにあった10円を賽銭箱に投げ入れる。

「パンッ、パンッ!」。そして目を瞑ってこう想う。

「お久しぶりです、波除さん。あれから長い年月が経ちました。本当いろいろあったけど、気がつけば僕はまたここにいます。ところで、波除さん、魚河岸が引っ越すって話を聞いたんですけど、それってホンマなんですか?」

 すると背後から聞いたことのある声が飛んできた。

「お~い、ケンちゃん!何やってんだよぅっ。とっととメシ行くぞぉ~この野郎!」

 波除さんの権化かと思えば、そこには身長175センチほどの一人の男が立っていた。マコちゃんこと田中誠さん(42歳)である。

今(2005年当時)から15年前、ちょうどこの場所で待ち合わせたときはもっとキリリと引き締まった好青年であった(たぶん僕も)のに、今ではよれ気味のズボンとネクタイをした中年太りの単なるオッサンだ。

 あれは1990年に開催された水神さんの祭りの時だった。「無事に担ぎ終えたら波除さんの前で集合だかんな」。

そのときに水神祭が行われたのは35年ぶり。魚河岸を誇りに思う江戸っ子たちの念願の祭りであったわけで、その盛り上がり方は半端じゃないと予測されていた。そして案の定、初日から因果にも雨台風が上陸し、人々も晴海通りまで溢れかえるほどに。

 当時の僕は場内の「太誠」という鮮魚全般を扱う店で働いていた。通称「ナニワのケン坊」(大阪人の僕がなぜ築地で働いていたかは長くなるのでまたの機会に)。

額には手拭、上半身には「太誠」を経営する本社「酒盛物産」の名が入った半纏、そして下半身はモッコリが少々目障りな半股引、足はもちろん地下足袋の体。江戸っ子でなくとも22歳、「太誠」で一番若い僕は最前線に出るように上司から命令が下されていた。

 神輿は河岸から出発して海幸橋、波除さんの前を通って一度晴海通りを横切る。そのまま入船方面に進み今度は築地本願寺を廻って新大橋通りへ。最後はもう一度晴海通りを横切って河岸の正門へ帰っていくわけだ。

この間、僕はどこからか沸いて出てきたスキンヘッド野郎とか刺青男などと前担ぎの取り合いを繰り返す。おかげで肩のみならず、額や頬にも殴られてできたコブが。半纏もビリビリに破れてしまい2度も着替える羽目になる。

 「太誠」店長の山川さんはさすがの気の強さでかなり前の方をがっちりと固めている。直属の上司である河豚似の藤原さんは僕の横で相変らず「こらぁ、しっかり担げ、バカヤロウ!」などと口ばかりで絶対に担ぐことはない。

社長は清々しい表情でたまにやってきては記念写真をパチリ。マコちゃんはもう一つの神輿の方で奮闘していたようである。

 だが、ここで何が一番トピックかというと、後で聞いた話だが、神輿からは沸騰したお湯のように延々と白い蒸気が湧き上っていたというではないか。それほど皆が皆、盛り上がっていたということだ。東京人はみんなクールでドライなどと聞いていたが、それは少なくとも築地には当てはまらないということを、このとき僕ははじめて体感した。

 河岸には口の悪い人間は山ほど、不器用でケンカ腰な連中も多い。もちろん、中には狡いことばっかり考えてるケチなヤツもいる。でも、そんなアホもバカもすべて受け取って一つの熱気にしてしまう力が神輿にはある。

 理屈じゃない、河岸の誇りと築地への愛着が生むこの熱気を、この町であと何回見ることができるのだろう。近所のメシ屋へ向かう際、オッサンになったマコちゃんがこう言う。

「おぅ、今年の6月に波除さんの祭があんだけど、ちゃんと神輿担ぎに来んだぞぉ~!」。
 マコちゃん、いや波除さんが呼んでいる。
 

【築地辞典】

●水神祭

築地魚河岸(市場内)の氏神様。本社殿は神田神社(神田明神)境内にあって、場内にあるのは遥拝所。水神祭で登場した大神輿と中神輿は神田明神で保管されている。

●波除稲荷神社

築地周辺(市場外)の氏神様。4代将軍の徳川家綱の時代(1659年)から河岸の平穏を守っている。今なお、波除さんの前でお辞儀、参拝する人が多くいる。意外にも(?)仲買など商人は信心深い。6/9~6/12つきじ獅子祭(今年は大祭)

●海幸橋

1995年まで存在した日本では希少なアムステルダム派デザインのちょっとした橋。波除神社の前にあった築地川に架かっていた。正門は観光客やトラックが、海幸橋は業者が出入りするところといった感覚。

 
●築地移転【みんなの声】

「魚河岸が消える!?」

①魚河岸の意味と移転問題

 魚河岸というのは築地市場の古称・愛称。江戸時代に徳川家康が大阪・佃(西淀川区)の漁民を呼び寄せ、日本橋で市を開かせたことがその発端であるが、大正12年には「中央卸売市場法」が制定され、それまで漁師や商人にあった主導権が東京市に変わる。紆余曲折して築地に移転したのが昭和10年のこと。高度経済成長期には国内はもとより、各国からあらゆる魚介が集中し、海外でも類のない多種多様の品揃えと取引量に。そんな世界の築地が今、消滅の危機に、正確には豊洲へ移転するという話がある。期日は2012年か、それ以降の近々。’04年7月付けの東京都が発表する新市場計画書には、事細かにその理由と新たな目的が記されているが、要は「古い、汚い、危ない」ということか。
 簡単に経緯を述べれば、’86年に老朽化を理由に築地再整備が決定。だが、一度作ったスロープを取り壊したり、建設中の駐車場がそのまま取り残されたり、なぜか工事は中断。’97年には豊洲移転の是非が問われ出すが最終的に話は不適としてお蔵入りするが、同年にまた一変して移転の話が急浮上。結局、’98年には移転論が本格化し、いつのまにか計画が決定したのである。都民の台所が、都民の知らない間に決まっているこの問題。
 現在、市場内外の商店から、ここに出入りする関係者、また単純にこの地域を愛する者たちへと、移転に対する認識と疑問が広がりつつある。ここでは、そんな幅広い層の人々の意見や考えをルポしていきたいと思っている。

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