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カテゴリー「プライベート」の記事

ナゾナゾとかいけつゾロリ

犬友の豆しばチョコちゃんちの子供さんが面白くて。

おねえちゃんのRちゃんは小1?小2?弟のHくんは幼稚園小さい組だったかそうでないような。

うちの黒柴クロのことをめちゃかわいがってくれている子供たちです。

で、ある頃からクロちゃんのパパ(僕)相手にナゾナゾを出してくるようになったんです。

昔も聞いたことがあるような問いもあれば、それちょっと強引やな、ってのもあって。

これが懐かしいのです。僕も小学生の頃は本当にナゾナゾにはまってたな~と。

あれ、中学だったかな。いやいややっぱり主に小学生時代だ。

特に語彙をいっぱい持っているIQ高そうなRちゃんは高度なナゾナゾを出してきます。中には自作も。

よっしゃなら僕からも、と思うのですが、これが口に出てきそうで出てこない。思いだせそうで思いだせない。えらいこっちゃ。

あれだけ昔ナゾナゾを出すのが得意だったのに全部忘れてしまってるんですよ。これにはショックでした。

何日か続くうち悔しくなって、今度俺もナゾナゾ仕入れてくるからねと。

で、昨日ネットであれこれしらべてメモをとったら、今朝のクロの散歩でまた会ったんです。

そうそう、今日はナゾナゾ仕入れてきたぞ!

全部で5問仕入れていたのですが、ちょっと難しかったみたいでもう少しシンプルな問いがいるなーなんて思っていたら「最近、かいけつゾロリのなぞなぞ&おやじギャグ読んでるねん。こ~んなに分厚い本」といって、親指と人差し指をぐいっとひらいて見せるのです。

ええ、そんなに分厚い本読めるの?

「うん」

今時は本なんて誰も買わないって言うけど、そうでもないやん。

「うん。おもしろいよ。明日持ってきてあげる」

お、見てみたい。おもしろそう。ところでゾロリってなに?

「ん?まんが。かいけつゾロリ先生が猪と歩いてるの」

へ~。

家に戻りさっそくネットでサーチするといっぱい出てきました。かいけつゾロリ。期間限定配信とやらの91話と90話を見てみたらめちゃ面白いじゃないですか。NGワードが多そうな点は今時風で、でもうまく工夫しているし、単に正義=ヒーローじゃなくて、常にズッコケがはいる面白さを基本にしているんですね。

テーマ曲も「絶好調♪」を繰り返すノリノリのアゲアゲです。朝ご飯食べたくなるような元気さです。

そうか大人たちはなんだか難しいことばかり言ってるけど、子供たちは今もシンプルでノリノリなんやな~と思った次第。

子供の頃はこの感覚で生きていたなーて思いだす今日この頃です。

僕は子供の頃はみんなみたいにいい子でいられないタイプの子でした。授業中はつまらな過ぎてギャグを言いつづけ、叱られるほどに臆病になるのですが、今度は一人でひたすら絵を描いたり彫刻で机をいろいろな形に掘ってしまったり。

休憩時間は仲良しの3,4人で漫画を描きあいしてました。で、月刊誌まで作ってみんなで売りあいっこするんです。お金まで紙で作ってね。一部50円。ちゃんと中綴じ、いや無線とじにしてあるんですよ。付録つきです。ゴムで止めてます。

で、一応は月刊でみんなに売るんですが、3日後に返してもらって付録だけはあげるというやり方です。その後また付録を作って別の友達に買ってもらうのです。これを延々と繰り返すうち早1か月がたち、一度もちゃんと月刊できたことはなかったような。

そうか、かいけつゾロリね。昔僕が作っていた月刊誌は「おやじの仮面ライダー」というものでした。友達は「キャマジン」。月刊じゃないけど、チラシの裏側にひたすらゴジラを描く友達もいました。彼は今や世界的に有名な芸術家になっちゃった。

僕の通知簿は6年間にわたり「集中力がない」というフレーズで埋め尽くされました。先生、どこみてんだ!?

ナゾナゾからの思わぬ記憶の蘇りです。

責任に追われるのではなく、このように面白さという感覚を提供し続けることがこれからの時代大事やなーとなんだかわからないけどズドーンと腑に落ちました。

タマネギを植えるのはなかなかキツイ

ついにはじまりました!というか周囲はすでにもう終わってる。タマネギの苗の定植です。

自分としては早2年目のタマネギの季節。昨年のデータを見たら、立石エリアの圃場で10月7日に野焼き3回目を終了し、30日に畝あげ。31日には定植を始め、中生、極早生、超極早生、早生の順に11月5日にコンプリートしています。

今年は昨年より温暖とのことですが、少なくともホームセンター3か所を回って全店完売でした。

と言うのも今年は播種からの苗づくりに挑戦して、これがまさかのほぼ失敗でして、見た感じ目標の10分の1もないかな。たぶん200あればいいところです。

昨年は487本。今年は1500~2000入れたいと思っていました。

でも、ニシダ師匠経由で畑仲間の方からのおすそ分け150本、ニシダさんご自身の苗150本を寄付していただき、昨日と一昨日2日間をかけ定植。

で、これがなかなかの重労働なのです。一本ずつ2,3センチ埋め込むのですが、土が団子状に固まってしまっていて苗を止められない。

これは今年田んぼだった圃場で、なおかつまだ湿気を多く含んでいたところで耕運機をかけてしまったことが原因です。これはニシダさんが気を利かして耕してくれたことなので文句の言いようもない。

なので、一昨日は強引にゴロゴロ団子の中に詰め込みましたが、これではかえって大変だということが分かり、昨日はメッシュをかけました。そう、土を篩う作業です。

土を篩う作業はけっこうやっている姿を見受けますが、これが大変だった(;'∀')

というのもすでに畝はあげられているわけですから、篩って残った硬い団子土をどうするかと。隣の畝をやっているベテランの女性に聞くと、畝の下に埋めていけばいいというのです。

で、進行方向およそ50センチのところの土をスコップで何十回か取り上げメッシュに入れてふるい落とし、残った団子を掘った穴に入れていきます。そしてまた50センチ先の土をメッシュに入れて、穴に入れた団子の上に篩い落としていく。牛よりのろいベリースーパースローモーションで腰が痺れます。

150本の苗を入れるためには、僕がお借りした畝は約70センチ幅なので4列として、ざっと40本になる。マルチをしたいところなのですがニシダ師匠はマルチ反対派で、つまり勘でやらなきゃいけない。

想定としては植える中心と中心が15センチ感覚なので、40本並べると6mになります。これが短いようでとても長い。土を篩うのにどうかな、おそらく1時間以上はかかってたと思います。

そこからまた苗を入れていくのにおそらく1時間半。そして水やり。仕上げに籾をかけていきます。これは自然派マルチ、つまり保湿保温のためです。

僕がやろうとするのは農業用マルチで、材質は主にプラスティックフィルムやビニール製。タマネギは来年5~6月の収穫で約7か月という長い期間がかかるので、その間にマルチが土に覆われたりするうち、後々はがすのが面倒だとか、追肥するのに手間がかかる、というのがニシダ師匠の反対の理由です。

でも僕はやはりマルチをしたくなる。その分、少しでも水やりや雑草取りが楽になるからです。片道バイクで50分。往復100分。最近は渋滞がひどくマナーの悪いやつも増えていて通うだけでも骨が折れます。

こんだけ寒くなってもまだ体重の減少がとまらない。おいしいもの食べたくてやってるのに痩せていくなんてね~

ちなみに300個のタマネギはどれだけの収量になるかと言うと、今回頂いている苗は早生なので通常より少し軽く、1個およそ150~200gと思われます。

仮に全部成功したらざっと50キロ。北インドのベーシックなチキンカレーなら400~500人分の量感です。

今回の僕の畝は40数mあります。10mはイチゴを入れちゃいましたので30mから12m差し引いて、あと18m。あと400本は入るでしょうから満タンいれてざっと700本(個)となります。収量はうまくいって120~130キロってところでしょう。原料コストはおそらく20000円。なので10キロ当たりに換算すると1600~1700円です。せめて倍で売らなきゃで、販売価格は3000円/10キロ。総利益16000~18000円あたり。

ここまでやって農薬・化学肥料を使わず、こまめに手をかけてやってもオーガニックJAS認定を受けていないとオーガニックを謳えないのです。JAS認定はなかなか手間暇費用が掛かると聞きます。そんな暇があったら作業をするといって、あえて認定を受けない農家も大勢いると聞きますがよくわかる話です。

でも世間はますます単調で偏向していくばかり。やはりJAS認定は避けられない雰囲気ですよね。そりゃ嘘をつく生産者や意味も分からず騒ぎ立てる人も一定数要るわけだから仕方がないのかもしれません。

それにしても、タマネギづくりはさほど手がかからない、と言われますが実際にはそれなりに大変です。

初期の水やり、病害虫の対策、追肥や草抜きなどの管理、収穫や乾燥させる作業や場所の確保、そして農薬・化学肥料を使わない(その分だけ世話をかける必要がある)、通勤…を考えると、何も考えたくないほど儲からない。

ビジネスなんて程遠い世界です。

10キロ1500円などで売ってるタマネギはどうやっているのか?!本当に淡路産?種だけじゃない?!どんな栽培方法???

みなさん、ちゃんと自分の目で素材を選びましょうね!

43回目の命日

あれは1979年、昭和54年のことでした。

僕が中学二年の時。

授業中のこと、突然担任の教師が教室に入ってきて、授業をいったん遮ったのです。

「カワムラ君、ちょっとこっちへ」。

普段から冷淡でキレてばかりのの通称ササババの表情がとても複雑そうな顔つきになっている。いったい何事かと思いました。

教室を出るとササババは僕の背中にそっと手をやり、こうつぶやきました。

「おかあさんから電話が入ってるの…」といって職員室ではなく、校門脇にある守衛室へ。

そこにテーブルの上にぽつんと置かれた黒い受話器がありました。

手に取ると、おふくろが激しくむせぶ声が聞こえてきました。

「けんちゃんっ?!けんちゃんっ!パパがっ、おとうさんがぁっ、うぐぐ$#&●×*?▼…」

生れて初めて生の絶叫というものを聞きました。

その異常さに僕は一気に嫌な予感が走ります。受話器の向こうからお袋が声を絞り出すようにして再び叫びました。

「もうっ、もうダメだってっ。もうっ、もうっ、うわぁっぁあ」

受話器の中だけで響き渡るおふくろの悲痛の叫び。ぼくはゆっくりと受話器を置き、5メートル先のデスクで視線を落とす守衛さんを一瞥し、ササババが今も背中に手をやり続けていたことに気づきます。

「カワムラ君、もうすぐタクシーが来るから。それに乗って病院まで行きなさい。学校は少しお休みしていいから」

そういった直後、タクシーが校門前に到着。かばんも持たずに僕は車に乗せられ、学校からの下りの坂道に立ち並ぶ和菓子屋やクリーニング屋を眺めます。

見慣れている風景のはずなのに、それが初めての街のように見えたことを今でもよく覚えています。

着いた先は茨木市民プール近くのわりとこじんまりとした病院でした。他学区でしたが、僕は水泳部だったので、この辺りは何となく土地勘があります。

エレベーターで何階かにつき、廊下に出ると数人の看護師が忙しくなく出入りしている部屋がありました。

おそるおそる入口に立つと、そこに親父の形をした物体が横たわっており、医師が電気ショックをもって数秒おきにガッシャ―ンとやっています。

電源が入るたびに親父の形をした物体はエビのように跳ね上がります。ドッーン、ドッーン。とても異常な光景に思えました。

そのすぐ背後でおふくろが泣きじゃくりながら「おとうさんっ、パパッあっ、おとうさんっ」と膝に手をついてずっと叫んでいます。

僕が呆然と立ち尽くしていると、そこに3歳年上の兄貴がやってきました。彼もまた何も言わずに、僕と同じようにただ立ち尽くしその信じられない光景を見つめるのみ。

医師は手による心臓マッサージに切り替えました。人の力で、人の胸というものはあれほどまでに沈みこむものなんですね。ものすごく力を込めて胸を押します。

十秒か、二十秒かが経った頃、医師は手を停め、腕時計と部屋の時計を見て、親父の死を告げました。

その瞬間、おふくろは親父の方に崩れ落ちるようにして抱き着き、この世のものとは思えない悲しい声で泣き叫びました。

それを見ていた僕は不思議と涙が出ません。それよりもおふくろが心配で心配で。さて、兄貴はどうだったか知りません。

人は本当に悲しい時は泣けないことがある、という賢そうな弁を知ったのはそれから十数年が経ってからのことです。

父親の直接的死因は心不全。昨日までは普段通りに生きていて、今日突然死んだのです。本当の経緯は不明のまま。

享年44歳。母親はこの時43歳。僕は14歳でした。

その瞬間から僕は今までとはまったく違った人生となります。まず見るもののすべてが、虚しく、冷温で、不自然に見えるのでした。

翌朝、平気で昇る朝日にさえも異常に感じました。父親が死んだのになぜ日はまた昇るのか。神を恨みました。本当はお前なんて存在してないんだろ?

いつもの新聞配達のバイクの音にも違和感を覚えました。こう、無情さというか、悔しさというか、言葉にならない不思議な感覚です。

親父の亡骸はとても重そうに見えました。真っ白な布団に真っ白な服を着せられ、顔に白い布を置かれて。線香のニオイに何だこれは?ととてつもない違和感を覚えます。最愛の親父がとても遠い存在に感じられました。

お通夜にササババが来てくれました。僕のカバンをもって。

たくさんの人がやってきました。家はけっこうデカくて庭がけっこう狭い。みなさんはその狭い庭をぐるりと回ってきて、裏側になる和室の縁側から数珠をもって焼香するのです。みんな神妙な表情です。殆どの人が泣いています。それを見るのがとてもつらかったです。

秋は遺体の管理が微妙な季節なのだと葬儀屋さんがそう言って、親父の亡骸のあちこちにたくさんのドライアイスだか保冷剤だかをセットしました。動かぬ足の指を触ってみるとカチコチです。実は親父のことをほとんど知らない僕でしたが、水虫もちであることは知ってました。

人は死後しばらくしても体毛や髪の毛が伸びるのだそうです。水虫はどうなった?などと妙に冷静な自分がありました。

翌日、親父の亡骸を棺桶に入れようにも、たまたまかミスか在庫切れか、サイズが合わないということで足の骨を折るというので、その場を離れました。おふくろは半狂乱になって拒絶してましたが、そばにいた誰か(おそらく親戚)が抱きかかえて引き離していました。

数分して棺桶に入った親父の顔を見ました。ほっぺはほのかにピンク色となり、鼻の穴に綿が積められ、冷蔵庫みたいな臭いが漂い、頭から足の先まで花だらけで窮屈そうです。

葬式がありました。

昨夜よりもすごいたくさんの人がやってきました。道路は混雑するタクシーで不通状態となっていたようです。後で知ったことですが300名以上の人がやってきたとか。

でも何人来ようが、その日も上る朝日や新聞配達のけたたましいバイクの音が不自然に思う感覚にかわりはない。すべて空虚のように思えました。

その後、火葬場へ行き、亡骸を焼きます。人を焼く匂いは独特のにおいがしますね。大人になってインドやネパールを旅して、何度か同様の匂いを嗅いだことがあります。

親父の骨は太くて重たいと誰かが言いました。それだけ若死にだった、というのと、俳優の石原裕次郎のようながっちりとした体系だった、というわけで。重かろうがなんであろうが、箸で摘まんだ骨をわざわざ隣の人へ回して、ちょこちょこと骨壷につめていきました。

数日後、親父方のおかあさん(おばあさん)が勝手に郷里静岡に墓をたてたとか、葬儀の最中だかその頃に警察から遺体解剖をしたいと言われていたとか、他殺の疑いがあるとか、取り調べがあって今度また話さなければいけないとか、週刊誌が取材したいとか、まぁ本当どれもこれも信じられないような話があちこちからこぼれてきました。

ちなみに企業戦死とか過労死とかパワハラとか労災とか医療ミスなどという言葉が世間を賑わすようになったのは、それからもっともっと後のこと。

親父が救急車で運ばれた病院は救急病院ではなくただの産婦人科だったそうですが、まさかね。僕はあえて調べていません。これらの現代用語が親父にいくつ当てはまるかわかりませんが、それももうどうでもいい。

なにがどうなったって死んだ親父はもう帰ってこないのだから。

これ以降僕の人生はなかなか独特のものになります。まず同級生たちと話が合わない。あまりにも人生に対する考え方が違うのです。日々の暮らし方も家族のあり様も。一時期はアウトローな路線にも行ってしまいました。

でも、幸いにも僕には大変お世話になる料理屋やバイク屋、そして中卒アウトロー系の仲間たちのおかげで、酷いことにはならず、むしろ人一倍楽しく充実した青春時代を迎えることができたと確信しています。

大人になってからは、あまりにもいろんなことがありました。とても語り尽くせない。

おふくろはコロナ襲来と同時に認知症対応の老人施設に入居。それほど酷いわけじゃないですが、おそらく今でも自分がどこに住んでいるかわかっていないと思います。いや、それでいいのです。

年に3,4回、アクリル板越しに10分ほど会えるのですが、たまに僕が誰かわかっていません。でも、とてもいい笑顔を見せてくれます。今まで見たことがないほどの笑顔です。何があっても笑え!最後まで笑うのだ!泣いてでも笑え!そうやってこの世を去っていくのが一番の幸せだと確信しています。それが最後に残った僕のおふくろに対する望みです。

明日は親父が他界して43年になります。すっかり僕は親父よりも年上になっていて。でも心の中ではあの時の子供のまま。時間が止まったままです。

親父、ありがとう!僕はもっともっとハッピーな人生を送りますよ!

そしてもうひとつ、再来週はおふくろの誕生日。もう思い出せないだろけど、施設の都合で会うことができないけど、お誕生日おめでとう!

これからが本番です!

ついに我がインド料理師匠も帰国

うぇーん💧 関西の、特に大阪の超一流インド料理店たちのクローズ減少が止まらない。と同時に超一流料理人たちが続々と帰国していく。

この10年ほどでざっと20人は下らない。特にこの5,6年は加速していて、昨年はついに神戸と大阪の最後の砦ともいうべき重鎮2店も閉店に追い込まれた。

このたび、4月末に帰国するのは、この10年ずっと師であり続けてくれたA氏だ。いや、いい加減に本名を言おう。

アリムル・シェイク氏である。年齢はまだ30代前半という若さ。僕は普段はアリやんと呼んでいる。

関西インド料理業界で彼の名を知らぬ者はいないと思う。それほどに真っ当なインド料理ならびに当時まだ知られていない南インド料理、さらに東部のベンガル料理を、言葉ではなく味で広めてきてくれた影の貢献者だ。インド人には珍しく?真面目なうえ、かわいい性格なので、宗派や民族、食の主義の垣根を越えて、超一流料理人の先輩たちからも可愛がられている。

インド東部、西ベンガルとオリッサの州境に住む代々農家の出身。海、川、湖、農園で育ち、10歳を過ぎたころから街に出てホテルの掃除、洗い場で働き始め、デリー、バンガロール、チェンナイなどのホテルやレストランの厨房で、タンドール料理、南インド料理、ライス料理、その他の鍋場で経験を積んできた本物の人である。宗派はインドでは少数派のイスラム教徒。

インドに同じイスラム教徒の親しい友人は数名いるが、彼ほどフランクで付き合いやすい、いわば日本ナイズドされたタイプはそう多くはないと思う。

料理の腕は言うまでもなく素晴らしい。今まで務めてきた主な店は、当時日本では珍しかった南インド料理の、ラヴァイディリ(ラヴァ=セモリナ粉、イディリ=蒸しパン)やウタパム(豆や米を原料にした生地の素朴なお好み焼きのような食べ物)などという希少すぎるティファン(南インドの軽食)メニューを定番とする料理店『ペートピート』(兵庫・伊丹)と、後に大阪JR吹田駅前にあったビリヤニとドーサ(豆と米を原料とした生地のクレープ様の食べ物)とタンドールの店『カレーリーフ』の2ヵ所である。一時期、現在ミシュランのつくハラル系アラブ料理店(大阪・ミナミ)の厨房にもいた。

特に先述の2店は希少な料理を出していたこともあり、本国の味に飢えるインド人たちをはじめ、日本のインド通、料理マニアたちが駆けつけていたが、時代と共に競合する店が増え、さらにブログやSNSが影響力をもつ時代へと移り変わると同時に、徐々に存在感が小さくなっていった。

彼もまたブログやSNSを理解する暇もなく、現場で身を粉にして働くので精一杯のプロフェショナル(職人)の一人だったのだ。

東京とは違い、大阪は多くの分野で伝統や文化を下支えする習慣が薄い、というか無い?ことも、彼のような超一流の本物の料理人が生きにくい大きな要因のひとつだと思う。同じ関西でも京都は伝統を守る気質が土壌に染みこんでいるように感じる。そして神戸も京都ほどではないが大阪よりは心意気があるように思う。

これは大阪人の僕も意外だったが、大阪は想像以上に文化伝統を守る下支えがないのである。

それは、先日、麺の業界誌「そばうどん2022」(柴田書店)で、庶民のための大阪うどん特集を担当した時に確信したのであった。大阪は昔から”東そば西うどん”と言われるほどのうどん文化圏であるにもかかわらず、文化を下支えするものがないのですぐに話題性だけで流されてしまう、と各店各社が嘆いていた。

まさかうどんもそうだったのかと、この時初めて気づいた次第である。

そんなだからか、大阪にまっとうな取材をしてくれるメディアはそう多くはない。インド・スパイス料理の現場に少しでも通じているタイプの在阪ライターの一人として、これほど不甲斐ない話もない。

アリやんは数年前に若い嫁さんをもらったのはいいが、嫁さんがインドで一度身ごもったのだが残念ながら死去してしまう。嫁さんを励ますうちに、よし、こうなったら日本においで、と日本の信頼のおける人たちからも歓迎されて来日。そして昨年、無事に元気な赤ちゃんを産んだのだった。

が、しかし、大阪にはインド系イスラム教徒のコミュニティは数少ない。またプレイヤールーム(礼拝室)もなければ、ハラル認定フードを提供する店もゼロじゃないけど非常に少数だ。

嫁さんは家の近所の公園を行き来するだけで、それ以外は一人かアリやんしか話し相手がなく、とても厳しい状況だった。

僕に何ができるか。釣りや買い物に付き合ったり、家に呼んで料理を教えてもらったり。何度アリやんテーストのインド料理店が作れないかと考えたかわからない。

最近では僕が畑を始めたことで、畑仕事、インドの農業についても色々教わっている。

インドの習慣、イスラム教徒の実直さ、料理の技術の高さ、などなど、僕がアリやんから受けた影響ははかりしれない。むろん彼は自分が先生のつもりはなく、ただ一緒に遊んでいるだけなのだと思うが。

来週は彼の畑へ行く予定だ。そして彼がやっていた畑の一部を僕がやらせてもらうことに。本人は、できれば一年以内にまた日本へ帰ってきたい、というが、嫁さん子供はもう日本に住むことはないので実際はどうなるかわからない。

こうなったら次はアリやんの実家にホームステイやな。

おふくろが元気でよかった!

コロナ禍において家族との生活スタイルががらりと変わった、という方もけっこう多いのではないでしょうか。

我が家はそれまで、約1年共に過ごしてきたおふくろが介護施設に入ったままでられなくなってしまいました。

というのも、緊急事態宣言に伴い、コロナの感染を少しでも防ぐために、ある種の公共施設である老人介護施設といては、ここで一度アウトかインかをはっきりさせたい、となるのは当然のことですよね。

そこで、それまで通いだったショートステイ先の施設に、そのまま入ってもらうことになったのです。

もちろんおふくろはわかっていません。認知症というのがここで功を奏したというか。

そんなに酷くはないんです。誰とでも通常の会話はできますから。でも、自分がいる場所とか、つい先までのことが記憶に残らない。いいと思います。人生それほど大事なことは多くない。その瞬間が楽しければ。そして今までの人生に少しでも多くの幸せの記憶があれば。

コロナ禍においては建物のサロンにて、ガラス越しに携帯電話でやり取りすることができていました。またラインによるビデオ通話もできますし。

それが今日は僕らも建物の中にまで入り、パネル越しに肉声で会話ができるようになっていました。

犬を触るとかはまだできませんが、それでも肉声で話ができるとか、ちょっと動くだけで服がこすれる音が聞こえるだけで、とても近く感じることができます。ま、お袋に触れることができたとてどうってことはないんですけどね。

ただ、僕が誰かがはっきりしていなかったのはちょっと寂しかったけど。今までもたまにありました。でも普段なら途中で思いだすんです。けど、今日は最後までわかってなかったな、あれは。たまに見かけるおもろいあんちゃん、という具合です。僕はいつでもテンションが高いですからね。

でも、以前よりもすごく笑い顔がなじんでいるし、顔色がいいのがうれしくて。

しいていえば、早く外出ができるようになればいいなということくらいです。また一緒に車に乗ってイオンでもいって寿司を食べよう!と話してきました。

最後の最後、自動ドアを出ようとしたら「私の家に連れて帰って!」と大きな声を上げたときには一瞬どうしていいのか戸惑いました。どさくさに「また来るから!今はまだ強い風邪がはやってるから!」というほかなかったです。

おふくろにとって本当の幸せとは何なのか。自分の家に帰ることか。いや、色々訳ありのあの家にはもう帰らない方がいい。僕の家に住むのがいいか。僕は何が何でも、とは思いますがカミさんが不可能。

おふくろにとって一番幸せなのは今のあの形なのだと信じています。今年も元気に健康で笑って生きてほしいです。

謹賀新年2022

あけましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願いします。

みなさんは昨年どんな一年を過ごされましたか。

僕は毎年何かひとつテーマを決めるのですが、昨年は「畑をする」でした。これが二転三転しながらも本当に実現できました。

最初は亀岡の懇意にしてくださってる蕎麦屋さんのご厚意で、すぐその裏でやろうとして。でも、高槻の若い農家に手入れの仕方などを聞いているうちに、亀岡より高槻のほうが少しでも距離が近いし絶対そのほうがいいとアドバイスを受け高槻で着手。かと思いきや、彼はオーガニックJAS認定を受ける準備があるとのことで、同じ集落の別の場所を紹介してくれて、今はそこでタマネギ(一部小松菜とコリアンダーとミント)栽培を始めています。

さらには同集落のベテラン農家の方がすごく目にかけてくださっていて、その方が借りている畑のうち、20メートルほどの畝を三本やらせてもらえることに。こちらでは、白菜、ミニ人参、ミニ大根、菜の花、青ねぎ、ほうれん草、グリーンピース、うすい豆、を栽培中です。

コロナ禍で3月、仕事が急停止したことをいいことに、今こそ!と思い飛び込んだのでした。

世間では一昨年の夏くらいからかなり深刻な状態だったと思いますが、僕は水面下で全国各地へ出張しては、写真撮影と取材をこなしていました。

こんな状況下でも多忙なのはとてもありがたいことですが、三つ子の魂百までとは本当の話で、10代半ばから30歳ころまで飲食の現場一筋で生きてきた僕はどうしても「行動」しないと腑に落ちない体質なようです。見る聞く、というのもとても大切な行動だし、勉強になることばかりなのですが、僕の脳みそはキャパが小さい?単純?なようで、単に情報として頭に入っているだけで全然イメージがわかないんです。そんな状態なのに、何軒もの店、何人もの人の取材を並行してやるなんて僕にはとてもできない。

そんな仕事の仕方では感動も少ないから、書ける内容も薄っぺらいし、人さまにも大事なことが伝わらない。

昨年一年間は僕にとってまったく無知の新規一年生でした。触るものすべて、起こることすべてが斬新で感動的でした。

そうか、あの人はこういうことを言っていたのか。あの味の秘密はここにあったのか。そういう発見もかなり多かったです。

そんな中で最も感動的だったことの一つに、「米」があります。

よくお米作りは水が大事、みたいなことを聞いていたのですが、その意味がようやく、まだ片りんだけだろうけど分かった気がします。

僕は直接米作りをやっていたわけではないのですが、そのお世話になっていた若い農家や、集落で知り合ったほかの農家、後半からお世話になりだしたベテラン農家さんなどの米作りを、ちょいちょいお手伝いさせてもらったり、日々の作業や稲の状態を見せてもらってきたんです。

土起こしの意味、代掻きとは何か、慣行農法のメリットとデメリット、低農薬の具体的な方法、無農薬の厳しさ、雑草の怖さ、天候は祈りの世界であること、想像以上に水質が大事だということ、稲刈り、天日干しと乾燥機の違い、もみ殻や藁のすごさなどなど、目の当たりにしてきて本当に感動の連続でした。

これはもしかしたら、賢い現代人もやっぱりやらなきゃわからなかいもしれませんよ。というか、やったほうがいい。楽しいから。幸せになれるから。

本気で思います。徴兵制ならぬ徴農制の導入を。できれば小学6年くらいがベターじゃないかな。一年間、過疎化の著しい限界集落などで合宿するとよりいいと思います。いろんな人間と悩みながら手を入れてみる。村の諸先輩から鎌の持ち方から学ぶ。

動物への価値観もがらりと変わると思います。

この2021年の体験の中で、今年2022年の僕のテーマは何か。

それは「米」。

米作りはまだまだ無理です。現在お世話になるベテラン農家ニシダ師匠は「やってみぃ」と言ってくれますが。

昨年、生まれて初めてトラクターに乗ったばかり。代掻きを少しと、4畝ほどの稲刈り後の土起こし、3畝ほどの畑を耕した程度です。

米作りはまず土を起こせないと話にならない。

「米」という言葉には、今年は昨年以上にどなたかの米作りをお手伝いさせていただきたいという思いと、僕なりの「原点回帰」の意味があります。

スパイスでいえば胡椒のようなもので、「米」ってどうしてもあって当たり前、と思ってしまう。そのためいちいち見向きもしない。メディア的にはとてもネタになりにくい世界です。

でも、いちいち有難味を誇張するような記事やテレビも気持ち悪い。何と言いますか、この「米を食べることができる」、なんだったら「よりおいしい米を食べることができる」というのは、実は神がかっている出来事だと思うんです。これほどにラッキーなことはちょっとあり得ないと。

すべての奇跡が重なり合って、その一粒一粒はできていることは間違いないです。これ、たぶん米農家の人は全員共感してくれると思います。

この奇跡が毎年少々の不作や気候不順があってもなんとか継続していることがまた超奇跡!その現実を知れば知るほど、本当にこのお米って神様がどっかから持ってきた?手品みたいにポイッと蒔いた?んじゃないかなと本気でそう思えてくる。

日本は稲づくりから始まった国であり、稲づくりそのものが神道である、という見方もありますね。それ、本当かもですよ。

というわけで今年のテーマは「米」で~す!

さて、今から元旦の晩御飯。集落でとれたお米をいただきます!

 

日本はすでに共食い段階に入っている?

11月の17~19日の3日間、畑でお世話になってきたスエノブ君が「日本の食 輸出 EXPO」に出展参加するというのでお手伝いに行ってきました。

僕に何ができるのかよくわからなかったのですが、スエノブ君が一杯一杯のようだったので、とにかく行き当たりばったりのサポートに。

場所は大阪南港インテックス。コロナ明けとはまだ言えない状況でしたが、名だたる企業が出展参加しており、日本人が大半だったけど想像以上に動員数が多くてびっくり。

諸外国のバイヤーや商社の方は通訳によるiPad超しに出展参加者と交渉しているのをみて、コロナYellowゾーンであってもなんとかなるもんだなと感心しました。

スエノブ君がエントリーしたものは、世界一辛いとギネスで認定されている唐辛子、キャロライナ―リーパーの粉末、同じものを使ったオリジナル七味、そして僕がレシピ開発を担当した汁なし担々麺「リーパーDEATH麺」の3種です。

多数の方々が足を止めて、好奇心いっぱいで話しかけてくれるもんだから、こちらも必死になってスエノブ君、そして商品3種のプロフィールをアピール。

特に今回はリーパーDEATH麺を売り込もうという作戦だったので、僕も力が入りました。

スエノブ君が出ていたのは「調味料」エリア。とあるスパイスメーカーや昔から愛好している調味料メーカーなどそうそうたる顔ぶれです。

そこで調味料メーカーの方とこんな話になりました。

「今までスパイスはかなり頑張ってきたんですが、やはり他社に圧されて、数年前についに撤退。日本は狭いマーケット、少数のお客を相手にすでに共食い段階に入っていて、お互いのいシェアを奪い合う状況です。そこで、元々調味料メーカーなので、それに集中するようになりました。今までは業務用のイメージが強かったのですが、現在は一般消費者向けの商品開発に力を入れています」

共食い、は出版業界も同じです。きっと同様の他業種も多いことでしょう。日本はすっかりガラパゴス。どうしても昔からの風習で、井の中の蛙の感覚が抜けないのでしょうね。

それで今回の「日本の食輸出EXPO」。海外の方々は日本産、日本製に物凄く興味を持たれていることがとてもよくわかりました。

スエノブ君の唐辛子は元々アメリカのキャロライナ州産です。その種を購入し、大阪北部高槻の山間で、何か月にもわたる土づくりから栽培、管理、特殊過ぎる加工を経てパッケージ化まで、一貫プロダクツを行っています。

完全と言ってもいいくらいのレベルでの無農薬、有機栽培。まもなくオーガニックJAS認定も受けるそうです。

日本の農業事情はとりあえず横に置いておいて、少なくともスエノブ君を含め、多くの日本人農家が現代でも超勤勉なのはすごいことだと思います。その姿勢は高度経済成長期頃までの日本と何ら変わりない、日本古来のDNAだと思います。

この勤勉・誠実さがあるからこそ、世界各国が例えばスエノブ君のキャロライナ―リーパーのようなアメリカ原産品でも、わざわざ日本人から買いたいのだと今回様々な外国人たちの話を聞いていて確信しました。

日本が世界に誇れるのは、日本産であると同時に日本人気質と言ってもいいでしょう。

よく考えてみれば、日本人は同じ国の見知らぬ日本人のことを信用しています。その証拠に食の既製品に対しても何の疑いや抵抗感もない。これは単に危機感がないとか、平和ボケというだけでなく、前提に同国の人間に対して信頼感がしっかりとあるからだと思います。そりゃ日本だって車や電化製品などリコールはしばしばあります。でも、そのこと自体も徹底していて迅速に行動する。そんな国そうそうないのではないでしょうか。

インド人なんてどこで誰が作ったものかわからないものを買うことはまずありません。

もう共食いは終わりにして、世界に出よう、世界に日本の凄さを伝えよう、と思えてくる。そんな元気の出るイベントでした。

今回のイベントは日本初だそうです。コロナによって延期していたようで、満を持しての開催。

大阪を皮切りに東京でも開催されるそうな。基本的にBtoBで、一般消費者を相手にしたものではありませんが、個人の飲食店経営者などもけっこう来場されてました。

今まで通り、真面目で誠実な日本人というもの求めてやまない人々が世界にいる。内ではなく外に向いていこう!そんな勇気をもらえた素晴らしい3日間でした。

僕も頑張ろう~

コロナワクチン打ちましたか?

気がつけな前回の更新からすでに一か月と2週間以上が経っている!

みなさんお久しぶりです。お元気でしたか?

僕は9月ワクチン接種による副作用がなかなか大変でした。あんなに強く反応が出るとは思ってなかったのでびっくらです。

一回目は夕方17時頃に接種して、深夜から肩が痛くて寝がえりが打てず(筋肉痛というより打撲的な痛み)、ドキドキがやまず、身体が火照って眠れませんでした。毎朝のヨーガができず(;´∀`)

で、摂取してから約20時間たった15時頃に何年振りかに体温を測ると37.5℃ありました。

僕は少々の熱を出しても自分で気づかないことが殆どですが、この時は体調が普段と明らかに違いました。

その日の夕方、外出の予定があったのでそこで初めて解熱鎮痛剤を一錠服用。30分ほどで楽になりました。

二日目は肩の痛みが半分くらいに減って、熱も平熱に。

二回目の摂取は夕方18時頃。で、これがきつかった。翌朝、また肩が痛くてヨーガ不能。すでに熱があったようで汗が止まりません。犬の散歩から帰って体温を測ると37.7℃ありました。その後どんどん体温上昇。

さっそく解熱鎮痛剤を一錠服用。

9時38.2℃、13時38.7℃(解熱鎮痛剤一錠服用)、14時にはパソコンができない状態となり、何十年ぶりかに床に臥せました。頭痛もなかなかハードで、だんだんぼーっとしてきて体温を測ると39.5℃あり、このあたりで気絶?寝落ち?

夕方何とか起きて、39.7℃あって、それでも食欲はやっぱりなくならないのでたらふく食べて、解熱鎮痛剤を二錠服用し即寝る。

夜9時頃、39.5℃。肩の痛みがどうでもいいくらい頭痛がハード。

三日目、朝38.7℃でようやく薬が効きだしたみたい。朝ヨーガ不能、犬散歩のみ。果物食って、解熱鎮痛剤二錠服用。

三日目、昼38.5℃。食事。頭痛はまだまだ。夕方17時頃、37.8℃とまだ熱はあるが、それまでが酷かったせいか完治した感覚。解熱鎮痛剤二錠服用。

四日目、朝、36.9℃とようやく平熱に。

二回目の接種後に飲んだ解熱鎮痛剤は合計8錠です。一回目は一錠。

一回目の時にメモを取って、クリニックに電話し、副作用の状態を伝えたほうがいいですか、と聞くと、「どちらでもけっこうです。不安なようでしたら医師につなぎます」という応対でした。

医師より電話をいただき、ひとつひとつ、それは副反応じゃない、それは副反応、という風に丁寧に説明をいただくも、データを収集しているようではありませんでした。

つまり、ネットなんかでワクチンの副反応のことを見ても、あまり鵜呑みにしない方がいいと思います。

だって一人一人データを取って集計したものではないから。当然、ある一定の条件下でのデータ結果なんででしょうけど、もっとマスで見ると特にパーセンテージデータは全然違うと思いますよ。

あれは確かに命がけのワクチンだということを痛感しました。インフルエンザや昔のBCGとは次元が全く違う。

そりゃ何も反応がないという人もいるらしいですけど、日ごろ何かのアレルギーや副反応がまず出たことのない僕がこんなに出たんだから。

もしかしたら元気な人ほどやばいかも。

驚かせるつもりはさらさらありません。僕が心配したのは、データなんてちゃんと取れていないので鵜呑みにしないことと、その分、態勢を整えておいた方がいいということです。

もう大半の国民が接種完了とのことですが、何らかの理由でまだの方はぜひ参考にしてください。

 

●コロナワクチン接種、お勧めの態勢

1.最低でも接種翌日とその次の日、合計二日間は何もしないつもりでいるのがいいと思います。

2.強力な解熱鎮痛剤を最低でも10錠は用意したほうがいいと思います。ネットのデータには熱は24時間後などとありますが、僕の場合は12時間後にはすでに熱が出ていました。また二回目での頭痛は三日間ほど続きました。

3.家族や仲間がいる人はまだいいですが、一人暮らしの方は特に要注意。高齢者より若年層のリスクが高いようなので、若い方は何が何でも薬を用意しておいた方がいいと思います。もし熱が出なければまた何科の時に使えるわけだし。解熱鎮痛剤については厚生省サイトにアドバイスが書かれていました。病院やクリニックで医師に日頃の体調も含め相談するのが一番かと。

僕が畑をはじめた理由

ここんところ一気に「畑ふわふわ日誌・まとめ編」を出血大アウトプットいたしました。

日誌の序章でも少し触れましたが、ここであらためて、なぜ自分が畑を始めたのか、について書きたいと思います。

僕が初めて畑に強い興味を持ったのは1998年頃のこと。三重松阪で日替わりインド定食の店『THALI(ターリー)』をやっているときでした。店のテーマは「日替わり定食」であること。今でこそ日替わりの定食的カレーだけの店がたくさんできていますが、当時は僕が知るところ日替わりでなく定番の定食スタイルで大阪に一軒のみと実に希少で、ましてやインド料理と言える店で日替わりといえば、グレイ―ビー(カレーのベース)は同じで具材が違う程度というのが普通でした。

そもそもインド料理店は1000円で物を食べるという次元の外食産業ではなく、3000~5000円、ランチでも1500~2500円というのが常識的相場でした。イタリアンやフレンチ、スペイン、中国などと同じく、外国料理レストランの一種としてちゃんと確立されていたのです。

そこに、インド人をはじめパキスタン人やスリランカ人、ネパール人の友人がたまたま多くいた僕は、彼らと公私を共にすることが多く、実際の食事は、白ご飯にすっぱからい漬物とヨーグルト、ムングやトゥーランなどの小さな豆の煮込み、野菜の汁気のあるカレー、汁気のないカレーなどを最終的にごちゃまぜにして食べており、これこそをメニュー化できないのか!?と強く感じた次第。

が、彼らにいくらそれを意見しようとも、それはあくまでプライベート(質素というニュアンス)の食事であり、高級志向(彼ら独自の信じ込みだけども)の日本人には合わないし、何よりもそれは失礼なこと、と言ってきかないのです。

カースト制度や厳しい経済・気候環境、貧困社会の中で生き抜いてきている彼らにとって、日本人は特別ハイレベルな人種だと信じていたわけですね。中には、どうせ日本人は何もわかってないから、といい加減な気持ちでいる者もいましたがそれはごくわずか。多くは、料理の内容、提供方法、食器の質、価格帯などすべてにおいて、これが失礼のない、日本人が最も喜んでくれる形と信じていたのです。

でも、僕には彼らのプライベートの食事の内容、食事方法、食器、価格帯こそが今の日本人が求める志向であると確信がありました。

そこで、1998年に縁あって僕は三重県松阪市に引っ越し、あの時の彼らのプライベートの食事を出す店を作ることになりました。

店は駅から徒歩5分ほどの場所にあり、最初は勤め人をターゲットに考えました。働く人々に、野菜が豊富でスパイスをシンプルに使った料理法でバターや肉類に依存しないヘルシーな料理を日常的に食べてもらいたいと思っていたから。この時の計画書は今でも残しています。

で、実際に店を開けてみると、最初はゲテモノ扱いでしたが徐々に受け入れられ、インドマニア、インド人、その他のアジア人、西洋や欧米人までたくさんの常連客に恵まれ、東京の雑誌や名古屋のテレビなどが取材に来てくれたりも、メディアからも注目してもらいました。

この時、世間にはスパイスを自らの手で使いこなすとか、ブイヨンや小麦粉に頼らず素朴なインド料理を作るとか、定食という不思議なスタイルがここにあるとか、そういう感じで伝えられ続けていましたが、当の僕が一番メッセージしたかったのは、毎日いろんな野菜をパワフルな味で楽しめる、ということでした。

当時はまた、日本の食卓から日本産の食材料がどんどん消え行く状況にあって、少しでも地産品を大事にしたいという思いもありました。だから、地産品を多く扱う地元の八百屋が主に仕入れ先となっていました。

そして半年もたたないうちに、当時大阪から愛知に引っ越して間もない母親から「おばさんが自家菜園やってるから手伝いにくれば」と連絡があったのです。

そこは名古屋の中心地から電車で10分ほどのところだったのですが、住宅が少しあるだけであとはだだっ広い田園地帯でした。

家庭菜園とはいえ、広さは20メートル×15メートルはゆうにある広さ。そこに何種類もの野菜が植わっており、収穫や耕しなどを手伝いながら、できた野菜をもらって店で使うというパターンになっていったのです。

Simg_7955 実際のおばさんの菜園(愛知県)

ただ、僕は月に1,2回程度顔を出すだけで、いくらおばさんから野菜作りの説明を聞いても、情報が頭の中に入るだけで、現実的なことはほとんど理解できませんでした。

そしてある時、母親が畑の白菜で僕が得意な中華料理「鶏の辛しいため」を作ってくれというので、畑から白菜を一つ収穫して、隣町に住んでいた母親の家まで行ったのです。で、いつものように調理を進め、味見をするとこれがまったく味が決まらない。最初は醤油や豆板醤が足らないと思い、加えてみたのですが今度は味が濃くなってしまい、スープを加えるとやっぱり味が緩くなってしまう。

結局どうやってもいつも通りの味にならず、すっかり鍋物のようになってしまったそれを器に盛り付けるほかありませんでした。

母親も「ほんとだね、いつもと全然違う」とぽつり。もちろんそれはマイナスの意味で。

その後、自分の調理法や調味料を何度も再確認しましたが、やっぱりそこに間違いはない。と、そこでふと白菜がしっとりとしていることに気が付いたのです。そういえばこの白菜、見たことがないほど肉厚で瑞々しい。いや、収穫直後は根からぼたぼたと水分が出て、むしろ水っぽ過ぎたのではないか、と思ったのです。

すると母親が「そう、根から水がしたたり落ちてた?いえば昨日まで雨が降ってたね。きっと水分を含みすぎているからこういう味になったんだ。鍋とかなら問題なかっただろうけど、炒め物だから」

「そう、この料理は特に強火でさっとスープを煮込むだけ。素材の状態がもろに影響する」と僕。

この瞬間、自分が店の厨房でしか料理のことを考えられていないことに気づきました。店と言ってもわずか7坪ほどの狭小な店。常にお客さんとセッションしながらの店だったので、まな板に上る以前のことまでは頭がまわっていなかったのです。

我々はどうしても日々のルーティーンが忙しくて、仕入れ先も固定してしまうし、そこで物を見ることが目利きだと信じ込んでしまっている。でも、それ以前のことはまったく知りもしないし想像もできない。どんな畑でどんな人が作っているのか。どのように出荷され、いつだれが八百屋まで運んでいるのか。また、それらのことがたかが白菜一つにどのように影響しているのか。

我々が知っている白菜は、生産者、流通業者、販売者などの手を経た末のものなのですね。例えば、雨が多く降れば、もしかしたらその前に収穫するのかもしれないし、逆に雨後何かしらの方法で水分を抜いて出荷しているのかもしれない。また、あるいは末端の八百屋が上手に乾かしている可能性もなくはない。

本当のおいしさとは何か。野菜の魅力とは何だ?ヘルシーだけか??それよりずっと前に、もっともっと大きなことがある。僕はそのことを知っているようで知らない。と、鳥の辛しいための失敗によってそう気づいたのです。

後日、菜園をやるおばさんにそのことを話すと、「野菜は太陽と土と雨によってできとるんやわ。なに、お前はそんな当たり前のことをいちいち考えてるのか?変わった子だね~」と言って笑われました。

Simg_7956 1999年頃、菜園にておばさんと愛犬サクラ(愛知県)

いや、情報としては知っているけど、身体ではわかっていない。だって僕はいつも通りの料理の枠から出ていないから。

店に戻った僕は生まれて初めてプランタによる栽培を始めました。いろんな種類のトウガラシ、コリアンダー、トマト、パセリなど。まったくドシロウトなので、当然のようにうまくいきません。何とか栽培できたのは唐辛子くらいのものでした。嬉しすぎて、3歳になったばかりの息子にそのトウガラシを持たせて、写真をパチパチ。

この時、いつか自家菜園を持った店を作りたい、と強くそう思ったわけです。

が、実際には大阪に戻ってきて著述業、料理研究業に勤しみ、どんどん自家菜園からは遠ざかっていきました。と同時に不思議と、有機野菜の広告チームに所属したり、雑誌やテレビ番組などで農家を取材する機会が多くあり、さらに公私ともに農家のお手伝いにいったりと、思いはどんどん募る一方。おそらく自分が取材した農家は全国に50軒以上はゆうにあると思います。

ですが、世の中が不況と叫ばれるほどに自分は月に一日休めればいいというほども多忙を極め、20年があっというまに通り過ぎてしまいました。

そこに、まさかまさかの節目がやってきたのです。コロナです。もう、諦めかけていた畑への思いが、どこからかふつふつと湧き上がってきたのです。そうだ、自分がやりたかったことの大きな一つがコレだったと。

4月8日から始めたので今日で1ヶ月半が経ちました。「農家は毎年一年生」と昔から各地の農家から耳にしてきました。それくらい、太陽と土と水との付き合いは多様ということでしょう。最近は、栄養や病気、獣、虫のことも、理解までは程遠いですが、目の当たりにすることが増えてきました。

おいしさの上流は畑にあり。その原点は土、太陽、雨にあり。当たり前だとまた笑われそうですが、僕は実際に突っ込んでいかないと理解できない体質。というわけでチャラい僕の畑レポート「畑ふわふわ日誌」を最近書き綴っておりま~す。

 

「畑ふわふわ日誌」全編リアルタイム

http://thali.tea-nifty.com/spice/2021/05/post-5baffc.html

http://thali.tea-nifty.com/spice/2021/05/post-a660ae.html

http://thali.tea-nifty.com/spice/2021/05/post-fcae5c.html

http://thali.tea-nifty.com/spice/2021/05/post-a2010d.html

http://thali.tea-nifty.com/spice/2021/05/post-cdb679.html

http://thali.tea-nifty.com/spice/2021/05/post-7db768.html

http://thali.tea-nifty.com/spice/2021/05/post-8cf205.html

http://thali.tea-nifty.com/spice/2021/05/post-351bac.html

http://thali.tea-nifty.com/spice/2021/05/post-7cb179.html

 

ちなみに本日5月22日は、ここ数日の大阪の長雨の合間の晴れ間?曇天?

お世話になっている、オーガニックファームhara のスエノブ師匠のところへ行き、その後畑で、トマトの手入れなどを行う予定です。合間に現在注目している、とあるパティシエさんのレシピページの編集構成を作ったり、現在協議中の料理関係の仕事の企画を考えたりと、一応仕事もしてますよ~🎬

同年代はどこへ行った⁉︎

今朝もいつものように我が家の黒柴クロの散歩に。そしてヨーガでスーハーしてたら、最近はジョギングやら体操やらする人が増えていることに気づきまして。

越してきた2004年ごろは電車も道も公園もガラガラ。それがこの10年で団地の建て替えと切り売りでマンションバブルの人口急増。今なお半径1キロ圏内で常に4、5つのマンションが建設され続けています。

おかげで電車は始発駅なのに立っている乗客がどんどん増えて、最近はコロナ禍になってから公園がガキ天国に。

で、ここ数ヶ月は平日の朝でもジョギングする人が増えてますね、間違いない。

いや、元々このあたりはジョガーは大勢いるんです。でも最新型はキラキラ光るシルバーのジャージとか、ダボダボの上下お揃いのしまむら的なスポーツウェア姿のおっさんが急増中。普段から走り慣れてる人じゃない。そういうのって、走り方とか身体付きですぐわかりますからね。

あきらかに、慣れてないおっさんです。

よく見るとおそらく僕と同年代くらいかと。どう見ても走ることもその格好もにわか感があふれています。

そしてだいたいこの感じの人たちは、わざとに歩道の真ん中を勇み足で歩く?走る人が多いのでけっこうウザイ。今時の、威圧感のある車でオラオラ運転する感じとそっくりな。

こいつら、今までどこにいたんでしょうか。

公園で出会うのは女性だけ、と信じていたのに。ガキはまー許す。ご年配の方はもちろんオールOK でもおっさんだけはいただけない。

コロナ禍による影響であることは間違い無いと思います。でも、その心理が僕にはよくわからない。突然、健康意識が芽生えたのかな。それとも出勤時間が変わった?リモートが増えたとか?ストレスが溜まってる?てか、何のストレスだ!?

あれ、待てよ。よく考えたら僕の周囲にこの手のおっさんが1人もいないのはなぜだろう?いたよね、同年代の同業者。やつらはみんなどこへ行ったの⁇

フリーランス、編集者、フォトグラファー、企画屋さんなどなど。おいおい!みんなどこ⁉︎

僕は何も考えず、ひたすら働き続けて気がつけば時間が経っているようです。気づかなかったなーみんなどこへ。

そうか、もしかしたら最近急増中のおっさんジョガーみたいなもんで、普通の人には手の届かない偉い層に生息してるんじゃないのか。そうだ。きっとみんな偉くなったんだ。

偉い層ってどんな?高級車に乗ってる?取材の現場にいないということは…会社?いや同年代のネクタイ族はあまり見かけないなー。

それじゃ別の仕事に転職?ならどこ?不動産屋?外食産業?制作会社?いやそんな人いたっけ。

というか偉いってなんだ??

あーますますわからない。

僕はただひたすら生きてきました。そしてふと周囲を見渡せば、年上はおろか同年代すらいません。みんな僕より年下ですね。今気が付きましたよ。

年齢のことを考えたことがなかったです。いや、考えることができないのです。僕のプログラムにないみたい。

たぶん僕はこれからもただ突き進むだけだと思います。公園をどかどかと走るおっさんを避けながら。

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